太田述正コラム#12174(2021.7.31)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(その6)>(2021.10.23公開)

 ほぼ同時期の明治元年3月14日(1868年4月6日)に五箇条の御誓文<(注4)>が発出されていますが、単純化すれば、五箇条の御誓文は明治新政権の(聖徳太子コンセンサスに由来する)手段、前出の秀吉御沙汰書は明治新政権の(日蓮主義に由来する)目的、を宣明したものであり、両者は、一体のもの、と受け止められるべきである、というのが、私の考えです。

 (注4)「一 廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ 一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フべシ 一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス 一 舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クべシ 一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AE%87%E6%9D%A1%E3%81%AE%E5%BE%A1%E8%AA%93%E6%96%87

 ちなみに、五箇条の御誓文は、「1868年・・・1月、福井藩出身の参与・由利公正が、「議事之体大意」五箇条を起案し、次いで土佐藩出身の制度取調参与福岡孝弟が修正し、そのまま放置されていた。それを同年3月に入って長州藩出身の参与木戸孝允が加筆し、同じく参与の東久世通禧を通じて議定兼副総裁の岩倉具視に提出した。」(上掲)というプロセスで策定されていますが、ここからも、秀吉御沙汰書の方も岩倉が決裁したことが推測できます。
 もとより、秀吉御沙汰書の方は、木戸孝允ではなく、大久保利通が内容を確定した、と、見るわけです。
 とにかく、戊辰戦争(1868年1月27日~1869年6月27日)の初期フェーズの大変な時期に、五箇条の御誓文とこの秀吉御沙汰書がセットで発出されたことの重要性はどれだけ強調してもしきれるものではありますまい。

7 尾張藩

 水戸藩のことを調べているうちに、今度は、尾張藩の幕末/維新期の動静の反徳川幕府性が改めて気になってきました。↓

 「藩主就任後の慶勝は、内政では倹約政策を主とした藩政改革を行う。他方、外国船の来航が相次ぐ情勢下にあって、徳川斉昭や薩摩藩主の島津斉彬、宇和島藩主の伊達宗城らの感化もあり、対外強硬論を幕府に繰り返し主張して、老中阿部正弘らの不興を買うことにもなった。ただし、慶勝においては御三家筆頭としての責任感も強く、幕政批判は幕府を補翼する意識の裏返しでもあった。
 ・・・1858年・・・の日米修好通商条約の調印に際しては、慶勝は徳川斉昭・慶篤父子・福井藩主の松平慶永らと共に江戸城へ不時登城し、大老・井伊直弼に抗議した。この行為が咎められ、井伊政権による反対派の弾圧(安政の大獄)により隠居謹慎を命じられ、代わって弟の茂徳が15代藩主となる。・・・
 ・・・1860年・・・に井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると、・・・1862年・・・に「悉皆御宥許(しっかいごゆうきょ=ことごとく許される)」の身となった。その年に上洛し、将軍・徳川家茂の補佐を命じられる。
 ・・・1863年・・・、茂徳が隠居して実子の元千代(義宜)が16代藩主に就任することとなり、附家老・成瀬正肥や、田宮如雲ら尊王攘夷派からの支持を背景に、慶勝はその後見として復権する。他方、慶勝に批判的な附家老・竹腰正富らに擁立されていた茂徳も家中に影響力を保持したため、文久期以降、尾張家は慶勝・茂徳の二頭体制の様相を呈し、対立・抗争を繰り広げることとなる。
 復権後の慶勝はたびたび上洛して京都政局に関与する。その京都では・・・1863年・・・に会津藩と薩摩藩が結託して八月十八日の政変が起こり、京から長州藩及び尊攘派の公卿ら(七卿落ち)が追放された。翌・・・1864年・・・に慶勝は、雄藩の最高権力者からなる参預会議への参加を命じられるが辞退した。
 その年、長州藩が京都の軍事的奪回を図るため禁門の変を引き起こすが、撃退された長州藩は朝敵となり、幕府が第一次長州征討を行うこととなる。征討軍総督には初め紀州藩主・徳川茂承が任じられたが慶勝に変更され、慶勝は薩摩藩士・西郷吉之助を大参謀として出征した。この長州征伐では長州藩が恭順したため、慶勝は寛大な措置を取って京へ凱旋した。しかしその後、長州藩は再び勤王派が主導権を握ったため、第二次長州征討が決定する。慶勝は再征に反対し、茂徳の征長総督就任を拒否させ、上洛して御所警衛の任に就いた。長州藩は秘密裏に薩摩藩と同盟を結んでおり(薩長同盟)、幕府軍を藩境の各地で破った。
 <その後、>藩政改革の機運が高まり、・・・藩校明倫堂関係者らの藩中枢部への進出が進み、彼らが王政復古に向けて藩政を主導していくこととなる。
 慶応3年10月14日(1867年11月9日)には15代将軍・徳川慶喜によって大政奉還が行われた。慶勝は上洛して、薩摩藩、土佐藩らとともに王政復古政変に参加、新政府の議定に任ぜられる。12月9日(1868年1月3日)の小御所会議において慶喜に辞官納地を催告することが決定、慶勝が通告役となる。この時期においても、慶勝は徳川宗家を補翼する意識を強く保持しており、大政奉還後は官位降奪の願書を朝廷に提出したほか、小御所会議では慶喜の出席を主張、議定職の辞職願を提出し、辞官納地に際しては尾張藩領を宗家に返還する意向まで表明している。
 ・・・慶応4年<(明治元年)>1月3日(<1868年>1月27日)に京都で旧幕府軍と薩摩藩、長州藩の兵が衝突して鳥羽・伏見の戦いが起こり、慶喜は軍艦で大坂から江戸へ逃亡した後、謹慎する。1月15日、慶勝に対し、藩内の「姦徒誅戮」のため帰国を命ずる朝命が発せられる。1月20日(2月13日)、慶勝は尾張へ戻り、家老・渡辺新左衛門ら佐幕派家臣の粛清を断行する(青松葉事件)。続いて朝命に従い、尾張藩は東海道・中山道沿道の大名・旗本領に派遣し、新政府恭順の証拠として、「勤王証書」を提出させる活動を繰り広げた。この活動により仁和寺宮嘉彰(小松宮彰仁)親王の率いる東征軍は大きな戦闘を経験することなく江戸へ向けて進軍することが出来たといわれる。青松葉事件とそれに続く勤王誘引活動については、慶勝自身の意向というより、岩倉具視と結託した藩校明倫堂関係者の影響力が指摘される。
 慶勝は、上記のような活動を行う一方で、茂徳と協力して容保、定敬の助命嘆願を行った。
 閏4月21日(6月11日)に議定を免ぜられ、その後政界に立つことはなくなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%8B%9D

 かつて、私は、尾張藩祖の徳川「義直は、尊王の理由から将軍の命令を拒否したことがあり、爾後、そういう意味での尊王が尾張藩の藩論になった」と述べたことがあります(コラム#10451)が、それは、「家光の息子・徳川家綱が神社へお参りに行くとき、幕府から「御三家の皆様も同行なさるように」との知らせがありながら、「無位無官の者に官位ある者がへつらうことはできない」と言って拒否したこともありました。そのころ義直は従二位・権大納言という高位。」
https://bushoojapan.com/bushoo/tokugawa/2021/05/07/49230/2
という挿話が念頭にあっての発言だったのですが、この際、もう少し義直のことを調べてみることにしました。↓

(続く)