太田述正コラム#12212(2021.8.19)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(その25)>(2021.11.11公開)

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[再び靖国問題について]

 私は、昭和天皇は、首相が靖国神社公式参拝を止めたので参拝を止め、その方針を、平成天皇も今上天皇も踏襲してきている、という説を唱えてきた(コラム#省略)が、改説する。
 まず、昭和天皇は、極東裁判でA級戦犯として死刑に処せられた東條英機を、戦前、戦後を通じ、一貫して高く評価していた。↓

 「元来東条と云ふ人物は、話せばよく判る、それが圧制家のように評判が立つたのは、本人が余りに多くの職をかけ持ち、忙しすぎる為に、本人の気持が下に伝わらなかつたことゝ又憲兵を余りに使ひ過ぎた。
— 昭和天皇。『昭和天皇独白録』より、
東条は一生懸命仕事をやるし、平素云つてゐることも思慮周密で中〻良い処があつた。
— 昭和天皇。『昭和天皇独白録』より」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F

 ということは、昭和天皇は、ほぼ、(対英米戦を(も?)主導した)帝国陸軍、ひいては軍部を高く評価していた、と見てよい。
 それに対し、同天皇は、極東裁判でA級戦犯として死刑に処せられた唯一の非軍人である広田弘毅に対しては極めて批判的で嫌悪感を抱いていたと言ってよいような見解を抱き続けた。↓

 広田弘毅については、「絞首刑の是非はともかく、広田が外相・首相という責任ある立場にありながら、悪化していく状況にほとんど有効な手を打てないどころか消極的に追随していったのは事実であり、外交の専門家からの評価は概して厳しい。例えば、盧溝橋事件の際に外相の広田の煮え切らない態度に外務省の部下は失望している。第一次近衛内閣の外相時の対応について、当時の外務省東亜局長であった石射猪太郎は「この人が平和主義者であり、国際協調主義者であることに少しも疑いを持たなかったが、軍部と右翼に抵抗力の弱い人だというのが、私の見る広田さんであった」「広田外務大臣がこれ程御都合主義な、無定見な人物であるとは思わなかった」と回想している。
 政治学者の猪木正道も、トラウトマン和平工作時の広田の姿勢を厳しく批判して「駐日ドイツ大使に和平のあっせんを頼みながら、南京攻略後の閣議では真っ先に条件のつり上げを主張するなど、あきれるほど無責任、無定見である」とし、「一九三六年のはじめごろから、広田は決断力を失ったと思う」と評している。猪木の著作を読んだ昭和天皇は「猪木の書いたものは非常に正確である。特に近衛と広田についてはそうだ」と猪木の評価を肯定している。
 『昭和天皇独白録』によると、昭和天皇は広田についてきわめて批判的な見解をもっていたことがわかる。天皇は広田を「玄洋社出身の人物」と明確に述べており、その思想に必要以上に警戒心をもっていたようである。広田が戦争の長期化や軍部ファシズム化にむしろ積極的な役割を果たしていたとさえ感じている節がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AF%85

 また、第二次近衛内閣の外相であったところの、やはり(広田と同じ)外交官上がりだった松岡洋右についても、「定説では昭和天皇は松岡を徹底して嫌っていたとされる。
 『昭和天皇独白録』にも「松岡は帰国してからは別人の様に非常なドイツびいきになった。恐らくはヒットラーに買収でもされたのではないかと思われる」、「一体松岡のやる事は不可解の事が多いが彼の性格を呑み込めば了解がつく。彼は他人の立てた計畫には常に反対する、また条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持っている」、「5月、松岡はソ連との中立条約を破ること(イルクーツクまで兵を進めよ)を私の処にいってきた。こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を罷めさせるようにいった」というような非常に厳しい言葉を残している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E6%B4%8B%E5%8F%B3
 ちなみに、松岡は、「敗戦後はA級戦犯容疑者として、GHQ命令により逮捕される。三国同盟の主導、対ソビエト戦争の主張などから死刑判決は免れないとの予想の中、痩せ衰えながらも周囲に「俺もいよいよ男になった」と力強く語り、巣鴨プリズンに向かった。しかし、結核悪化のため極東国際軍事裁判公判に出廷したのは1度だけだった。その際の罪状認否では、無罪を全被告人中ただ一人、英語で主張している。1946年(昭和21年)6月27日、駐留アメリカ軍病院から転院を許された東大病院で死去<している。>」(上掲)
 更にまた、1939年9月に駐イタリア大使を解任されたところの、(広田、松岡と同じ)外交官上がりだった白鳥敏夫についても、昭和天皇は手厳しい。
 「白鳥は大島と連携して防共協定強化、つまり日独伊三国同盟の推進を図った。イタリア赴任前には同盟に反対する叔父の石井菊次郎に対して、「叔父の外交は古い」といいはなっている。しかし三国同盟には反対派も多く、「薄墨色の外交」を基本理念としていた有田八郎外相も積極的に推進するつもりはなかった。また日本政府としては同盟はあくまでソ連に対抗するためのものであり、英米に対してはイタリアとの連携によって牽制する程度の意味しかなかった。しかしドイツは対象を限定しない一般的同盟を求め、白鳥と大島はその代弁者となった。白鳥は「自分たちに都合のいい虚偽」を独伊に押しつければ、「帝国の道義的外交」の瑕疵となると主張し、日本側の目的達成よりも独伊の要求に沿うことで、同盟締結を優先するよう主張していた。また交渉が停滞すると、たびたび自分を本国に召還するよう要請し、本国政府に対して圧力をかけた。
 本国の指示に従わない白鳥らに対し、若干譲歩するものの、同盟は基本的にソ連を対象としたものであることを説明するよう訓令したが、白鳥らはこれも無視した。米内海相は「政府の威信いずこにありや、政府の命に従わぬような大使は宜しく辞めさすのが至当なるべし」としたものの、政治状況は両大使を罷免できる状況ではないと嘆いた。3月22日には五相会議が「すぐに有効な軍事援助はできない」という意図を伝えるよう決定し、もし両大使が従わない場合は召還するという方針を決めた。これを昭和天皇に上奏すると、天皇は「その旨を文書にするべし」と指示し、五相会議のメンバーによる念書が天皇に提出されている。しかし白鳥らは訓令を拡大解釈し、独伊が英仏に対して宣戦する場合は、日本も宣戦すると明言した。
 この行為に天皇は、白鳥らの行為が天皇大権を侵すものであると激怒し<ている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%B3%A5%E6%95%8F%E5%A4%AB
 ちなみに、白鳥は、「極東国際軍事裁判に出廷したものの、喉頭癌によりかなり衰弱していた。裁判では白鳥の活発な言論活動が戦争をあおったものであると指摘され、弁護側は「日本のゲッベルスに仕立てようとしている」と批判した。裁判の後半ではほとんど欠席しており、終身禁固刑の判決が下った<。>」(上掲)

(続く)