太田述正コラム#12216(2021.8.21)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(その27)>(2021.11.13公開)

 すなわち、「春秋例大祭に勅使が派遣され、現在に至ってい<たり>、皇族方が<しばらく>参拝されていた」(前出注24)のは、昭和天皇の親拝停止が、戦死者を合祀することを旨とする靖国神社が文官中判決前に死亡した者と死刑判決が下されて執行された者まで合祀したことがおかしいという形式的理由によるものではないことはもとより、いずれの人物も昭和天皇の目から見ても戦争責任があるところの3人(たまたま全員が外務省関係者)を合祀したことがおかしいという意味での実質的理由によるものでもなく、外務省には、(総力戦研究所の研究結果等を踏まえ、)できれば対英米開戦より前に対英米開戦(「宣戦」)は回避すべきだ、そして、遅くとも南方作戦が完了するまでの間に、また、最悪でも南方作戦の完了後速やかに、英米と平和(「講和」)交渉を始めるべきだ、といった上申を自分に対して行わなければならないのにそれを怠ったという重大な責任が省としてある、という意味での実質的理由によるものだったからだ、というのが私の現在到達した考えだ。

 (帝国陸軍と帝国海軍にはどうして対英米戦について戦争責任がないと昭和天皇が考えたかだが、戦争の宣戦・講和は統帥権(統帥大権)マターではなく外交マターであって、どちらについてもその「事務」を所管するのは外務省だからだ。
 図示すると、通常の場合だが、以下のような流れになる。

外務省→天皇(宣戦)→参謀本部/軍令部—–外務省→天皇(講和)→参謀本部/軍令部
         |        ↑支援               ↑支援
          –→内閣の輔弼→陸軍省/海軍省———————-同左

 この流れの中で、外務省が、一度ならず二度も、職務懈怠をしでかした、というわけだ。)

 問題は、そのような真の実質的理由を開示するわけにはいかないことだ。
 開示できないからこそ、「春秋例大祭に勅使が派遣され、現在に至っている」し、「皇族方が<しばらく>参拝されていた」、というのが、繰り返しになるが、私の現在の見方なのだ。
 どうして理由を開示するわけにはいかないのか?
 それは、軍令に関する大権であるところの統帥権とは違って、ほぼ等閑視されていることもあり、ここまで、あえて触れないできたのだが、宣戦と講和は、条約締結と共に、明治憲法第13条で外交大権とされていて、
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%96%E4%BA%A4%E5%A4%A7%E6%A8%A9-457236
天皇が、内閣の輔弼を受けることなく行使できるというのが通説だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95%E7%AC%AC13%E6%9D%A1
からだ。

 (「昭和天皇は立憲君主としての役割を自認していたとされ、即位以来、政治に大きく関わることは比較的少なかったとされている。
 しかし田中義一内閣の時、昭和天皇が田中義一首相の言動に対して懐疑的になり、侍従長に「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ」という言葉を発した。これが田中に伝わり、田中は『恐懼に堪えない』として、内閣総辞職した。この事件を、・・・ポツダム宣言の受諾を巡って御前会議が紛糾した際に、昭和天皇自ら受諾の決断を下したとされる・・・例に並んで、天皇が政治に関わったとされることがある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%96%AD
ところ、田中義一の件に関しては憲法違反に近いが、ポツダム宣言の件に関しては憲法上、講和は天皇の(単独)権限なので、御前会議が紛糾しようがしまいが、受諾はできたのだし、むしろ、それまで講和を決断しなかった責任が問われるべきなのだ。
 なお、「二・二六事件<の時、>…昭和天皇は反乱将校たちに激怒し、徹底した武力鎮圧を命じている。天皇自ら近衛師団を率いて鎮圧に当たると述べたとされる。」(上掲)ことについては、これも、憲法上、天皇は陸海軍を(単独で)統帥(指揮命令)できたので、何の問題もない発言だ。)

 ストレートな表現で恐縮だが、昭和天皇は、こういう「細かい」ことを、というか、「細かい」ことは、大いに気にし、それに通暁しようとし、こだわろうとする、人物、である・・同天皇が植物分類学者であることを想起せよ・・、と、私は見ており、自らの職務懈怠の結果、昭和天皇としては、対英米戦に関し、「宣戦」すべきではないのに宣戦してしまい、しかも、その失策を、南方作戦の成功裏の完結時まで(という、降伏ではない本来の意味での講和を試み得る期間)に「講和」交渉を命じなかったためについに全く汚名を挽回できないまま、日本の軍民等に大災厄をもたらした挙句、ほぼ無条件の降伏のやむなきに至ってしまったことについて、痛恨の思いを抱き、そのトラウマを引きずったまま、残りの生涯を生きた、と、私は、まことに僭越ながら想像している次第だ。
 ところが、このことを、同天皇は、誰にも明かせなかったわけだ。
 明かせば、外務省関係者である広田と松岡と白鳥の三人の合祀に憤って靖国神社親拝を止めた理由が、要は自分の外務省に対する逆恨みであるということが分かってしまい、自分自身の評判を失墜させるだけではなく、自らの職務懈怠、ひいては法的な戦争責任、の追及に繋がりかねないので、明かすに明かせなかった、と、私は見ているわけだ。
 その結果、(そもそも不定期に行ってきた)靖国神社への親拝こそ(外務省に対する逆恨みという個人的理由で)停止することができたけれど、(定期的に行われてきた)靖国神社の春秋例大祭への勅使の派遣停止にまでは(その理由を明かさずして)踏み切れなかったところ、やがて、昭和天皇を見倣って一般皇族も参拝を止め、平成天皇と今上天皇も、(個人的理由で親拝を止めた)昭和天皇が亡くなった以上、親拝を復活すべきなのに、(個人的理由で昭和天皇が親拝を止めたことを知っていたとしてもそれを明かすわけにはやはりいかないことから、)お二方とも復活に踏み切れないまま現在に至っている、ということではなかろうか、とも。

(続く)