太田述正コラム#12228(2021.8.27)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読む(その9)>(2021.11.19公開)

 「コエリョの本音は、島津氏(薩摩)に圧迫されつつあるキリシタン大名の有馬氏(肥前)と大友氏(豊後)への援助を求めることだったが、秀吉には宣教師たちがキリシタン大名を動員する力をもっていることを印象づけることになった。
 加えて、ポルトガルの大型帆船二隻を提供するという話は、イエズス会とポルトガルとの軍事的結びつきを秀吉に確信させた。
 日本国内で急速に政治力と軍事力を蓄え、長崎をも直轄領として支配するようになったイエズス会に対して、天下人である秀吉が警戒を強めるのは当然だった。
 この場に同席したフロイスによると、このとき秀吉は、「20万から30万の軍勢を率いてシナに渡り、その国を征服する決意であるが、ポルトガル人らはこれを喜ぶやいなや」と聞いたそうだ。
 「その問いに対するポルトガル人らの答えを聞くと、関白は無上に満悦した」・・・とある。
 この様子からみて、コエリョがそれに同意し、協力を表明したことは間違いないだろう。
 ポルトガルの大型帆船二隻の提供は、その文脈で理解できる。
 この席で秀吉はコエリョに、長崎の港は教会に与えることを約束したともあるので、なおさら協力を表明する以外になかっただろう。
 もしこれが実現すれば、明国征服は日本とポルトガルの同盟によって実施されるということになる。
 しかも、日本主導の明国征服計画にポルトガルを従わせるという計画であった。
 前に紹介したように、コエリョは即時日本征服論を唱えてフィリピンに軍隊の派遣を求めていた。
 改宗した日本の兵隊を動員して明国を征服できるとも考えていた。
 これはあくまでポルトガル・イエズス会主導型の明国征服である。
 コエリョがこの計画をイエズス会のフィリピン布教長アントニオ・セデーニョ<(注13)>に知らせたのは、この前年の1585年のことであった。」(70~71)

 (注13)「アントニオ・セデーニョ<=Antonio Cedeño(? 太田)>の指揮によってマニラの再建と要塞化が進められ・・・フィリピン最古の石造り教会で<ある>・・・サン・オーガスティン教会<等が>・・・作られました」
https://www.cool-world.net/Manila/spot1/30/
 「スペインの<フィリピン>植民地<の>・・・軍事拠点とされた・・・マニラの・・・サンチャゴ要塞<は、>・・・当時は木造の砦でしたがイエズス会修道士アントニオ・セデーニョの設計により石造りに改修されました」
https://www.travelerph.com/entry/FortSantiago

⇒邦語典拠であるところの「注13」の裏付けをとろうとしたのですが、San Agustin Church (Manila)
https://en.wikipedia.org/wiki/San_Agustin_Church_(Manila)
やFort Santiago
https://en.wikipedia.org/wiki/Fort_Santiago
の英語ウィキペディアに、アントニオ・セデーニョなる者は全く登場しません。
 更に、Antonio Cedeño, Manilaで検索をかけてみたけれど、全くヒットしませんでした。
 「イエズス会のフィリピン布教長アントニオ・セデーニョ」なる人物はコエリョらによるでっちあげ、或いは、その「事績」を含め、コエリョらが話を著しく膨らませて伝えた、という疑惑が拭いきれません。
 いずれにせよ、私が言いたいのは、ザビエルはバスク人(スペイン人)ですし、ヴァリニャーノ(コラム#11866)やオルガンティーノはイタリア人であり、たまたまポルトガル人であったところの、フロイスやコエリョ(下の「注13」参照)が日本がらみのイエズス会士を皆ポルトガル人だと日本側に説明するわけがありませんし、また、フロイスやコエリョがどう説明しようと、信長や秀吉らが、イエズス会士がみなポルトガル人だと思い込まされるほど情報収集を怠っていたはずもまたありえません。
 1580年にスペインとポルトガルが同君連合となり、その結果、ゴアもフィリピンも、フェリペ2世という一人の君主が支配するところとなった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%9A2%E4%B8%96_(%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E7%8E%8B)
ことだって、信長も秀吉も先刻承知していたことでしょう。
 ですから、「イエズス会とポルトガルとの軍事的結びつき」だの「日本主導の明国征服計画にポルトガルを従わせる」などといったアバウトなことを秀吉が考えていたはずがありませんし、いわんや、「ポルトガル・イエズス会主導型の明国征服」などといった、とんでもなくばかげた話を信じていたはずもまたないのです。
 (仮にですが、当時の日本では、「ポルトガル」という言葉を「スペイン・ポルトガル」という意味で使っていたのだとして、それならば、平川は、そのことについて、注意を喚起すべきでした。)(太田)

(続く)