太田述正コラム#12237(2021.8.31)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読む(その13)>(2021.11.23公開)

 「バテレン追放に関する「一八日覚」では、・・・日本人を奴隷として売買することを厳しく批判し、その停止を命じている。・・・
 日本国内でも戦争捕虜や借金のために家人を売買の対象とすることはあった。
 だがポルトガル人は海外進出とともに、アフリカやインド・東南アジアで奴隷ビジネスを広範に展開していた。・・・
 ポルトガル人の渡来とともに日本も奴隷市場に組み込まれたのである。
 とくに女奴隷は価値があった。
 
⇒ポルトガルの方がスペインよりも奴隷使用ならぬ奴隷貿易では「先達」である(注18)とはいえ、バテレン追放令が発出された1587年は、累次指摘しているように、1580年のスペインとの同君連合成立から7年も経っているのですから、平川が「ポルトガル」とだけ書いているのは問題なしとはしません。(太田)

 (注18)神聖ローマ帝国皇帝(スペイン国王)のカルロス5世(1世)は、スペイン領アメリカの原住民の奴隷化を禁じたが、スペイン領アメリカへの域外からの奴隷(主として黒人奴隷)の輸入は続けられた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Slavery_in_Spain
 ”The First Atlantic system was the trade of enslaved Africans to, primarily, South American colonies of the Portuguese and Spanish empires. During the first Atlantic system, most of these traders were Portuguese, giving them a near-monopoly. Initially the slaves were transported to Seville or Canary Islands, but from 1525 slaves were transported directly from the island Sao Tomé across the Atlantic to Hispaniola. Decisive was the Treaty of Tordesillas which did not allow Spanish ships in African ports. Spain had to rely on Portuguese ships and sailors to bring slaves across the Atlantic. Around 1560 the Portuguese began a regular slave trade to Brazil. From 1580 till 1640 Portugal was temporarily united with Spain in the Iberian Union. Most Portuguese contractors who obtained the asiento between 1580 and 1640 were conversos. For Portuguese merchants, many of whom were “New Christians” or their descendants, the union of crowns presented commercial opportunities in the slave trade to Spanish America.”
https://en.wikipedia.org/wiki/Atlantic_slave_trade

 あまりにも多くの日本人男女がポルトガルに連れてこられたことから、ポルトガル国王ドン・セバスティアンは、日本での布教活動に支障が生じるとして、1571年に日本人奴隷の取引を禁止したほどであった。
 この禁止令は日本にいる宣教師からの要望によって発令されたというから、イエズス会士が奴隷貿易は宗教倫理に反すると考えていたことは事実である。
 しかしその後も奴隷売買が盛んだったように、この勅令はまったく無視された。・・・
 イエズス会宣教師<は>奴隷貿易に関与していた<。>・・・
 ポルトガル商人の購入した日本人が合法的に奴隷身分とされることを保証するために、宣教師が奴隷交易許可状を発給していたのであった。・・・
 秀吉のコエリョに対する問詰は、そのことにほかならなかった。
 バテレン追放令が出されたあとの1591年に、イエズス会の要請によってインドのポルトガル当局が日本人の奴隷取引を禁止している。
 これは秀吉のバテレン追放令の影響だとされている。
 バテレン追放令は、宗教と権力が一体化した植民地主義への警告だけではなく、奴隷売買の批判など、世界史的にも重要な意義をもっていたのである。
 その後、1596年には日本司教のセルケイラ<(注19)>が、日本人男女を購入して海外に舶載することを禁じ、違反者は破門することを定めた。

 (注19)Luis de Cerqueira(1552~1614年)。「ポルトガルの宣教師。イエズス会士。アルビトル<(アルビト=アルヴィト)>に生まれ、エボラ大学で哲学、神学を講じた。・・・1593年,・・・府内(大分)<に駐留していた>・・・マルティンス・・・司教の後継権を持つ補佐司教に任命され<、>司教に叙階された。翌年リスボンを出発し<たが、>・・・禁教令下の日本入国は困難を極め、・・・マカオに待機中,マルティンス司教が死去し<たので、>・・・<そ>の地で日本司教に叙せられ<、>・・・1598年<、>・・・ヴァリニァーノらと長崎に渡来。府内が禁教策の中にあったため長崎に居を定め・・・た。・・・まずセミナリオ(神学校)を設立して・・・日本人聖職者の養成と布教活動に努め、『サカラメンタ提要』(1605)をつくり、教会法の遵守、婚姻、祝日、断食などを日本の国情に適応させつつ整備した。日本最初の信心会を組織。1606年伏見に上って徳川家康に謁見、彼の在京中五畿内・・・のキリシタンに堅信礼を授け、また本多正純、板倉勝重、細川忠興に教会の保護を求めて成功した。のち長崎で没した。・・・
 『秘跡の祝いの宝鑑』『良心の尊貴なることの手引』などの日本語の著作がある。」
https://kotobank.jp/word/%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%82%A4%E3%83%A9-87823
 エボラ大学(エヴォラ大学=Universidade de Évora)は、1559年に設立されたポルトガルでコインブラ大学に次いで古い大学で運営はイエズス会に委ねられ、マルティンス(D. Pedro Martins)初代日本司教はこの大学の卒業生。
https://en.wikipedia.org/wiki/University_of_%C3%89vora
 「堅信礼<(confirmation)は、>・・・洗礼を授かった信徒に対し,さらに聖霊のたまものを豊かに与えるため,ローマ・カトリック教会では受洗後一定期間ののち (幼児洗礼の場合は7歳以上) ,ギリシア正教会ではより古い伝統に従い受洗後すぐ与えられる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A0%85%E4%BF%A1%E7%A4%BC-60742

 1603年にはスペイン=ポルトガル国王<(注20)>も、日本イエズス会からの要請に応えて、日本人の売買を禁じている。

 (注20)Felipe III(1578~1621年。スペイン・ナポリ・シチリア・ポルトガル国王:1598~1621年)。「1609年、スペイン全土からモリスコ(キリスト教に改宗したイスラム教徒)の追放が行われた。その数は27万人に及び、ほとんど農民であったため、スペイン農業は大打撃を受け、深刻な食糧不足に陥ったといわれる。なお、1615年1月30日には、慶長遣欧使節の支倉常長と面会している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%9A3%E4%B8%96_(%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E7%8E%8B)

 だが1605年に国王は、インド・ゴア市からの抗議をうけて、正当・適法な名目があれば日本人奴隷を禁じるものではないという見解を示した。
 幾度も禁止令が繰り返されたということは奴隷貿易が続いていたということであり、国王が禁止令を曖昧化せざるをえなかったということは、日本の奴隷市場がポルトガル商人にとって、きわめて巨利をもたらすものだったことを示している。」(82~84、86~87)

(続く)