太田述正コラム#1442(2006.10.10)
<筑駒の学校説明会で考えたこと(続)(その2)>(有料→2007.4.6公開)

 私が矢内原をよく理解できない第2点は、彼がマルクス主義の学問方法論としての不毛性に気付いていたはずなのに、マルクス主義を放擲しようとしなかったことです。
 マルクス主義を採用した以上、植民政策の研究者としての矢内原は、資本主義が高度化した国家は帝国主義的国家として植民地の獲得に乗り出し、獲得した植民地を搾取する、というマルクス主義的帝国主義論を踏まえ、植民地の獲得に乗り出した段階で既に日本資本主義が高度化していたことと、日本が植民地を搾取していることとを明らかにする、ということにならざるをえないはずです。
 実際、矢内原は、東大経済学部の同僚教官であるマルクス経済学者の大内兵衛(1888??1980年)には、「台湾や満州や朝鮮や南洋やにおける日本の植民政策を実地について検討してみると、それは概して帝国主義であるといっていい。日本の植民政策は人道的でもなく民主主義的でもない。」といった趣旨のことを語っていたようです(359頁)。
 ところが、「帝国主義下の台湾」を読むと、矢内原はその正反対のことを書いています。
 すなわち矢内原は、「日清戦争・・当時の我が国は高度の発展段階における独占資本主義国、すなわち金融資本主義国としての帝国主義実行者たる実質を有せざりしものである」(24??25頁)と、日本の植民政策が帝国主義の発露であったはずがない、としています。 しかも彼は、「我が台湾統治30余年、その治績は植民地経営の成功せる希有の模範として推賞せらる。・・本島人の生産力、富裕及び文化の程度もまた我が領台前に比較して著しく向上したるものと見ざるをえない。」(316頁)と、日本の植民地政策が人道的であったことを認めているのです。
 なお、矢内原が「帝国主義下の台湾」を上梓したのは1929年ですが、その4年前の1925年には、普通選挙制度の確立と合わせ、内地に居住する朝鮮人と台湾人に参政権が与えられ、6年後の1935年には、台湾で、初の市町村(台湾では市街庄)会選挙が、議員の半数を地方税納税額による制限選挙で選出する形で行われた(注3)(328頁、及び
http://www.cnc.chukyo-u.ac.jp/users/yhiyama/jameah/newsletter/news03.htm
(10月10日アクセス))ことを考えれば、日本の植民政策は民主主義的でもあったということになるでしょう。
 
 (注3)「帝国主義下の台湾」で矢内原は、「植民地の統治が文明的なりや否やの一応の試験は、適当なる時期における原住者参政権の容認如何に存する」(317頁)と、台湾人への参政権の付与を強く求めている。
 
 これは一体どういうことでしょうか。
 矢内原は、マルクス主義的帝国主義論を踏まえて植民政策講座の自己否定のようなことを書いたら、東大から放逐されかねないというので、あえて筆を曲げたのでしょうか。
 そうではありますまい。
 彼は、現地調査を伴った実証的研究を重視しており(348頁)、日本の内地と台湾の実証的研究の結果、上記のような結論に到達し、素直にその結論を書いた、ということでしょう。
 その限りにおいては、矢内原は、東大の社会科学系の学者の大半が東大創設当時同様、実証的研究を軽視し、もっぱら欧米の学説の焼き直しだけでお茶を濁していた中では、高く評価されるべきでしょう。
 問題なのは、このように理論と実際が食い違っている以上、方法論たるマルクス主義を放擲すべきなのに、矢内原がそうしなかったことです。
 彼は、マルクス主義に代わる学問方法論を探してそれに乗り換えたり、自ら新たな学問方法論を構築したりする意欲と能力に欠けていたのでしょう。
 しかしそんな自分を、敬虔なキリスト教徒たる潔癖な矢内原は、許せなかったのではないでしょうか。

3 「憂国の士」としての矢内原

 この心中の葛藤が、1937年の日華事変勃発直後の、矢内原の、実証的研究を踏まえたとは思えない、「今日は、虚偽の世において、我々のかくも愛したる日本の国の理想、あるいは理想を失った日本の葬りの席であります。私は怒ることも怒れません。泣くことも泣けません。どうぞ皆さん、もし私の申したことがおわかりになったならば、日本の理想を生かすために、一先ずこの国を葬ってください。」という矯激な発言(
http://www.asahi-net.or.jp/~hw8m-mrkm/kate/00/yanaihara.life.html
前掲)となって現れた(注4)、と私は考えています。この場合、敬虔なキリスト教徒たる矢内原が自分の内なる醜い矢内原を「日本」に藉口して断罪しているのです。

 (注4)この発言の結果、45歳の矢内原は東大を逐われる。
 
 同様、戦後の矢内原の前出の発言である、「札幌から発した自由・民主主義教育が主流とならず、東大から発した国家主義教育、あるいは国体論、皇室中心主義が主流となった。それが太平洋戦争を引きおこした。」も、実証的研究を踏まえたものではなく、矢内原の心中の葛藤の現れにほかならない、と私は考えるのです。ここでは、敬虔なキリスト教徒たる矢内原が、自分の内なる醜い矢内原を「<戦前の>東大」に藉口して断罪する、という構図です。

4 感想

 私は、戦後の東大が、愚かにも全面講和に固執して時の首相の吉田茂から正しく「曲学阿世」と切り捨てられたところの、知的に怠慢なキリスト教徒たる南原繁、そして、知的に不誠実であったキリスト教徒たる矢内原忠雄、という二人の社会科学系の総長を、その出発点において13年の長期にわたっていただいた(それぞれ、1945??51年と1951??58年が任期)こと(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8E%9F%E7%B9%81、及びhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E5%86%85%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E9%9B%84
(どちらも10月8日アクセス)が、(戦前に引き続き東大を模範と仰ぎ見た)戦後日本の全国の大学における社会科学系の学問の発展の阻害と学生運動の堕落・荒廃をもたらした、とさえ言えるのではないかと思っています。
 とりわけ矢内原が、マルクス主義との腐れ縁を最後まで断ち切れなかったことの罪は大きいのではないでしょうか。

(完)