太田述正コラム#12263(2021.9.13)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読む(その26)>(2021.12.6公開)

 「家康の段階では禁教と貿易のあいだにブレがみられたが、秀忠段階になると禁教方針を明確にし、カトリック国との貿易を断念する方向性が顕著にあらわれてきた。
 サン・ファン・バウティスタ号が二回目のメキシコ航海に出帆したのは、1616年9月30日であった。
 ちょうどそのような時期に政宗に対する「御陣立」の噂が流れている。
 したがって、二回目の政宗謀反の噂は、遣欧使節派遣問題に関連しているとみなしてよいだろう。・・・
 家康に忠誠を誓ったとはいえ、家康も配慮せざるをえない政宗の存在感は、秀忠にとってかなり大きかったのではないだろうか。・・・
 秀忠がスペインへの不信感を増幅させたのは、禁教令にもかかわらず宣教師の来日が続いていたことに加え、イギリスやオランダがスペインの侵略性を幕府にしきりとアピールして貿易の主導権を握ろうとしていたことも関係していると思われる。
 たとえばイギリス商館長のリチャード・コックス<(注49)>は、1616年9月11日・・・に上府して将軍に拝謁しているが、その前後には幾人もの幕府関係者に会っている。

 (注49)Richard Cocks(1566~1624年)。イギリスで生まれ、ロンドンでの徒弟生活の後、勅許会社のClothworkers’ Companyに入る。
 開設された1613年から(1623年のアンボン虐殺事件を機に)破産に伴い閉設された1623年まで、英東アジア会社の平戸商館長(Head of the British East India Company trading post in Hirado, Japan)を務め、その間の日記を残した。( Diary of Richard Cocksとして1883に出版。日本語版ウィキペディアが、「イギリス商館長日記」(Diary kept by the Head of the English Factory in Japan: Diary of Richard Cocks, 1615-1622)と、’Factory’という英単語を用いている理由は不明。)
 英国船で帰国途上インド洋南部で死去し、水葬された。
https://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Cocks
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9
 「アンボイナ事件<(Amboyna massacre)は、>・・・オランダ領東インド(現インドネシア)モルッカ諸島アンボイナ島にあるイギリス東インド会社商館をオランダが襲い、商館員を全員殺害した事件である。アンボン事件、アンボイナの虐殺とも称される。
 この事件により、<イギリス>の香辛料貿易は頓挫し、オランダが同島の権益を独占した。東南アジアから撤退した<イギリス>は、インドへ矛先を向けることとなった。・・・
 1623年2月10日の夜、イギリス東インド会社の日本人平戸出身の傭兵・七蔵がオランダの衛兵らに対し、城壁の構造や兵の数についてしきりに尋ねていた。これを不審に思ったオランダ当局が、七蔵を拘束して拷問にかけたところ、<イギリス>が砦の占領を計画していると自白。直ちにイギリス東インド会社商館長ガブリエル・タワーソン(Gabriel Towerson) ら30余名を捕らえた当局は、彼らに火責め、水責め、四肢の切断などの凄惨な拷問を加え、これを認めさせた。3月9日、当局はタワーソンをはじめイギリス人9名、日本人10名、ポルトガル人1名を斬首して、同島における<イギリス>勢力を排除した。・・・ 
 1652年、第一次英蘭戦争(英蘭戦争)の2年後、事件発生から31年後の1654年には、オリバー・クロムウェル護国卿下のウエストミンスター講和条約(Treaty of Westminster) で、オランダが30万ギルダー(8万5000ポンド)の賠償金と米国のマンハッタン島を支出することで決着した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%82%A4%E3%83%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 9月17日・・・には、秀忠の側近土居利勝の家臣に対して、カトリックの宣教師たちがイギリスで国王の殺害をはかったり信徒を先導して叛乱を起こさせたりしたので、こうしたことを日本でさせないよう皇帝(将軍)に助言をしたほうがいいと忠告している・・・。
 それだけではなく、幕府船奉行の向井将監に会ったさい、将軍がどこか征服したいのならフィリピンがよいとまで勧めている。
 マニラはスペインのアジア拠点であったから、そこを日本が叩いてくれればイギリスにとっては願ってもないことだった。

⇒この口車に載せられた形にして、秀忠には、フィリピンや台湾に海外進出をして欲しかったところです・・そうしておれば、先の大戦において、日本は遥かに少ない出血で同等以上の成果を上げることができたことでしょう・・が、家康、秀忠親子の保守性というか、退嬰性、には度し難いものがあった、と申し上げておきます。(太田)

 また・・・コックス<は、>将軍(秀忠)に対して、スペイン国王は家康が死んだと聞けば人を送って寄こし、キリシタン大名が蜂起すればそれを支援するだろうと忠告した・・・。」(228、230)
⇒それほど大昔ではない、17世紀前半においてさえ、世界がいかに野蛮で血なまぐさかったかに辟易させられますね。
 思えば、わずか400年間に、人類は、(イスラム世界の相当部分を除いて、)なんとという長足の進歩を成し遂げたことでしょうか。(太田)

(続く)