太田述正コラム#12265(2021.9.14)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読む(その27)>(2021.12.7公開)

 「ここでは、幕府側から意図的に政宗討伐の噂を流し、政宗を牽制した可能性があることを指摘しておこう。・・・
 1467年・・・に発生して11年間続いた応仁の乱によって将軍権力が衰退し、幕府が自力で遣明船を派遣できなくなると、堺を本拠にする細川氏や山口の大内氏が堺や博多の商人と連携して派遣するようになった。
 1523年・・・に、大内氏と細川氏がそれぞれ派遣した遣明船が寧波で武力衝突を起こした<(注50)>結果、大内氏が遣明船の権益を掌握する。

 (注50)「日明貿易(勘合貿易)は、室町初期の幕府3代将軍・足利義満、明の2代皇帝・建文帝の頃に開始され、明が海禁政策を行っている事情から足利将軍家の幕府将軍が「日本国王」として冊封し、倭寇と区別するため勘合符を発行して相手を承認する朝貢形態で行われ、十年一朝など制限がされていた。幕府が派遣する使節には博多や堺などの有力日本商人が随行し、その間で私的な貿易が行われていた。・・・
 大内義興が追放されていた前将軍・足利義稙を奉じて上洛、管領細川高国を味方につけて将軍職復帰を実現させると、1516年には功労として大内氏が遣明船派遣の管掌権を永久的に保証された。これによって日明貿易の主たる港が堺から博多に移り、細川高国は大きな収入源となっていた明との交易利権を実質奪われる形となってしまうが、大内氏の軍事的支援によって反対派に対抗していたために、異論を差し挟むことができなかった。ところが、1519年になって大内義興が領国の事情から山口に戻ってしまうと、これに反発した高国は一転して大内氏と対立する姿勢を見せる。
 大内義興が1523年に謙道宗設(けんどうそうせつ)を正使に遣明船を派遣すると、細川高国は対抗して鸞岡端佐(らんこうずいさ)を正使、宋素卿(朱縞)を副使として、既に無効となった弘治勘合符を持たせて南海経由で遣明船を派遣する。
 寧波には先に大内方の遣明船が入港して<い>・・・たが、細川方の副使宋素卿は明の入港管理所である市舶司大監の頼恩に賄賂を贈り、細川方を先に入港検査させた。これに激怒した大内方は細川方を襲撃して遣明船を焼き払<った上、>・・・明の役人をも殺害する事件が起こる。
 事件は外交問題となり、・・・対日感情の悪化から1529年には市舶司大監は廃止される。
 遣明船による貿易は、1536年・・・には義興の子・大内義隆が再開し・・・、博多商人たちは莫大な富を得る。1551年・・・に義隆が家臣の陶隆房の謀反で滅亡するまで続くが、この事件をきっかけに寧波に近い双嶼や、舟山諸島など沿岸部で日本人商人との私貿易、密貿易が活発化し、倭寇(後期倭寇)の活動となってゆく。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%A7%E6%B3%A2%E3%81%AE%E4%B9%B1
 宋素卿(?~1525年)は、「日本に拠点を置いて貿易に従事<していたが、>1510年・・・には将軍足利義澄の使者として渡明し、・・・翌・・・年の遣明船では細川船の綱司(正使)となって入明した。・・・
 1523年・・・には細川高国が派遣した遣明船・・・の副使として再び渡航。このときの遣明船では、大内船(綱司は謙道宗設。3隻)が勘合符(前回の正徳次の勘合)を所持しており、細川船(1隻)が所有していたのは、幕府に求めた前々回の・・・1495年・・・の古い勘合であり、明側の対日貿易港であった寧波に入港したのも大内船より遅いという、細川船にとってかなり不利な状況にあった。そこで宋素卿は寧波の市舶司大監である頼恩に賄賂を贈り、・・・便宜を図らせる・・・ことに成功した。これらの措置に宗設ら大内船の一行は激怒し、鸞岡瑞佐を殺害。宋素卿を捕らえようと細川方を襲撃、遣明船を焼き払い、嘉賓館、東庫などを襲撃した。これに対し、明の官憲は細川船に荷担して鎮圧を図るが、大内方は退くことなく暴行を続けた。宋素卿は紹興城へ逃れたが、大内方の追跡により明の役人劉錦らが殺害された。・・・
 宋素卿は捕らえられて死罪とされ、投獄された後まもなく・・・獄死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E7%B4%A0%E5%8D%BF
 「海禁とは下海通蕃 (出海し外国に通交すること) の禁の意味。明では元末から倭寇,海寇の防止策として,・・・1371・・・ 年以来この政策が堅持され,海外諸国には朝貢貿易のみを許していた。しかし中期に禁令がゆるみ,<支那>人の密船,密貿易が盛んとなり,これを取締ろうとしてかえって・・・1522~66・・・年の大倭寇を招く結果となり,ついに<15>67・・・年に海禁を解き,海外渡航の緩和策がとられた。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B5%B7%E7%A6%81-42264

 大内氏は博多商人と連携して大きな利益を得るようになった。・・・
 平戸にポルトガル商人を呼び寄せたの<は>、平戸に屋敷をもっていた倭寇の王直<(注51)>だったといわれている。・・・」(232、240、242)

 (注51)おうちょく(?~1560年)は、「後期倭寇の頭目。・・・度重なる明の海禁政策を逃れ、1540年に日本の五島に来住し、松浦隆信に招かれて1542年に平戸に移<り、>・・・密貿易を拡大。 明の河川や沿岸地域に詳しいために倭寇の代表的な頭目となり、・・・1553年・・・5月に三十七隻を率いて太倉、江陰、乍浦等を寇し、同年8月に金山衛、崇明に侵入した。
 朱紈の死後に倭寇の取締りは一時的に弱まるが、兪大猷らが新たに赴任し、1556年には胡宗憲が浙江巡撫に就任する。胡宗憲が総督に就任すると、王直は上疏(じょうそ)して自らはもはや倭寇ではないので恩赦を得たいと訴え、海禁解除を主張し、自らの管理下での貿易を願い出た。しかし明朝の倭寇の鎮圧は本格的に開始され、1557年、王直は官位をちらつかせた明の誘降に乗って舟山列島の港へ入港した。明朝では王直の処遇について意見が対立していたが、1559年12月に王直は捕えられて処刑された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%9B%B4

⇒日本人を中心とした前期倭寇が明の自傷行為的な海禁をもたらし、また、秀吉の朝鮮出兵が明の命運を決した、と言えそうです。
 それにしても、宋素卿と王直の「活躍」と悲劇的な死は身につまされます。(太田)

(続く)