太田述正コラム#12269(2021.9.16)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読む(その29)>(2021.12.9公開)

 「あまり知られていないことだが、伊達政宗と同時期に海外交渉をおこなっていた大名がいる。
 佐賀の鍋島勝茂<(注54)>である。

 (注54)1580~1657年。「龍造寺隆信の重臣であった鍋島直茂の長男<。>・・・
 隆信の死後、龍造寺政家は、豊臣秀吉から肥前国7郡30万9902石を安堵されたが、朱印状は龍造寺高房宛となっている。鍋島直茂はうち3万石余(直茂・勝茂の合計高4万4500石)を与えられ 、龍造寺氏領の支配を委任され実権を握った。
 しかし高房が幼少であることから、筆頭重臣である鍋島直茂が代わって国政を行う状態という、家督と国政の実権が異なる状況が続いていた。そのため、鍋島家は正式な大名ではなかったわけであるが、勝茂は豊臣時代から既に大名世子としての扱いを受けていた。朝鮮出兵においても父・直茂が龍造寺軍の総大将として出陣している。・・・
 1597年・・・からの慶長の役では父と共に渡海し、蔚山城の戦いで武功を挙げた。
 1600年・・・の関ヶ原の戦いでは西軍に与し、伏見城攻めに参加した後、伊勢国安濃津城攻めに参加するなど、西軍主力の一人として行動した。しかし父・直茂の急使により、すぐに東軍に寝返り、立花宗茂の柳川城、小早川秀包の久留米城を攻撃した。
 関ヶ原本戦には参加せず、西軍が敗退した後に黒田長政の仲裁で徳川家康にいち早く謝罪し、また先の戦功により龍造寺家は肥前国佐賀の本領安堵を認められた。・・・
 1607年・・・に龍造寺高房、後を追うように政家が死去すると、勝茂は幕府公認の下で跡を継いで、龍造寺家の遺領(検地による高直しで35万7千石・・・)を引き継ぎ佐賀藩主となり、父の後見下で藩政を総覧した。・・・
 1614年・・・からの大坂の陣では幕府方に属した。・・・1637年・・・からの島原の乱に出陣する<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8D%8B%E5%B3%B6%E5%8B%9D%E8%8C%82
 「龍造寺氏<は、>・・・肥前国佐嘉郡<龍>造寺(現,佐賀県佐賀市)を本拠とする中世武家。藤原秀郷流というが,諸説あって不明。秀(季)家が1186年・・・に<龍>造寺<荘>の地頭職に補任されて<龍>造寺を称する。弘安の役には家益が活躍し筑前・筑後にも勢力を拡大。南北朝期には家政が北朝方として活躍。室町時代には少弐氏に属する。戦国期には少弐氏に反旗をあげたため家兼が筑後に追われて,危機となるが,鍋島氏らに迎えられて佐賀水ヶ江城に入る。1546年・・・家兼の曾孫円月が還俗して隆信と称し,少弐氏を攻略して肥前の一大武将となる。・・・
 <しかし、>1584年島津氏に敗れ,隆信は敗死。子の政家は病弱のため家臣の鍋島氏が国事を代行,1607年<龍>造寺氏は絶家。」
https://kotobank.jp/word/%E7%AB%9C%E9%80%A0%E5%AF%BA%E6%B0%8F-877913

 1609年・・・から1613年・・・までに、ルソン大司教およびフィリピン総督、さらにスペイン国王とのあいだに交わされた五点の往復書簡がある・・・。
 鍋島と・・・政宗・・・両者の共通性は、大名が独自にフィリピン総督やスペイン国王と親書を交わすことができたということである。
 朱印船貿易にみられるように、幕府は渡航・来航を許可する朱印状の発給権は掌握したが、大名による外国君主との書状・親書の交換までは完全に規制できていなかった。
 この時期はまだ、幕府による一元外交が未確立な段階、すなわち国家としての外交権を、まだ完全には掌握しきれてはいない状態だった。
 だからこそ<、鍋島も>政宗も、ある程度の独自外交が可能だったのである。」(250、252)

⇒行政法の初歩ですが、「権限の委任の場合、権限は、委任を受けた行政機関(受任機関)みずからの権限とな<り>、受任機関は、当該権限を自己の名により行使し、委任機関は受任機関に対する指揮監督権を当然に有するものとはならない<ことから、>受任機関が委任機関の下部機関である場合以外は、受任機関は、指揮監督権を受けることなく、自己の名で権限を行使することができる。」
http://sikaku.kenkou-jyouhou.net/index.php?%E6%A8%A9%E9%99%90%E3%81%AE%E5%A7%94%E4%BB%BB
ところ、鍋島や政宗といった(外様)大名は、幕藩体制下で一貫して「自己の名で<藩政に係る>権限を行使」したわけであり、だからといって、これら大名が将軍の下部機関ではなかったと言い切ることもまたできないのであって、現に、これら大名は、当時に国際貿易に関しては、将軍によって朱印状を発給されていなければ行い得なかったものの、その上で、「自己の名で」国際貿易「権限を行使」したのであり、このようなことは、朱印船貿易以外の貿易や、その他の外交にあっても、幕末に至る幕藩体制下では同じことが言えた、というのが私の理解です。
 このことには、「将軍である徳川氏は、本来は<大名達との>主従関係に基礎を置いた封建領主であり、その権力は私権力であった。その私権力が国家君主として公権力に転化するためには、その権力支配が支配の正統性を獲得することが不可欠であった。・・・<それを、>徳川氏がその領主制関係のなかに天皇・伝統的権威を組み込むという方法で実現し<、>・・・その支配が公的支配であることの論拠が確定された。このように位置づいた将軍を公儀(こうぎ)とよぶ。ここで、公儀を頂点に、封建的諸関係は、公的な関係に転化していった。しかし、これに対して、封建的関係はその根源において私的関係であったから、この公儀の成立は、いわば私的関係が公的関係に連動せしめられるという結果となった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B9%95%E8%97%A9%E4%BD%93%E5%88%B6-113828
という、いわく言い難い、微妙なる将軍・・徳川将軍に限らないでしょう・・と大名達との関係、という背景があった、と。(太田)

(続く)