太田述正コラム#12271(2021.9.17)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読む(その30)>(2021.12.10公開)

 「とはいえ一方では、同じ西国大名であっても、薩摩の島津氏、肥後の加藤氏、長州の毛利氏のように、幕府の禁教令に応じてキリスト教の取締りを強化した大名も少なくない。
 こうしたなか、鍋島勝茂と伊達政宗は幕府の禁教令を容易には実行しないという点に共通性があった。・・・
 だが鍋島は、ついに1613年・・・、家康から領内に宣教師をとどめていることを叱責されたため、ドミニコ会士の追放を命じざるをえなくなった・・・。・・・
 1611年・・・に家康は池田輝政の娘を養女として伊達政宗の嗣子虎菊(のちの二代藩主忠宗<(注55)>)の許嫁とした。

 (注55)1600~1658年。「大坂城下で誕生。母は田村清顕の娘・愛姫。・・・1607年・・・、この年誕生した徳川家康の五女・市姫との婚約が成立したが、市姫は3年後に夭逝したため、代わりに池田輝政の娘・振姫(家康の孫娘)が徳川秀忠の養女として嫁いだ。・・・庶長子であった兄の秀宗は、・・・1614年・・・の大坂冬の陣に父と共に参陣し、戦後に大御所徳川家康から伊予宇和島10万石を与えられて別家を興したため、忠宗が伊達宗家の後継者と定められた。
 ・・・1636年・・・5月、父・政宗の死去に伴い家督を相続する。忠宗は同年8月に藩主としての初入部を果たす」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E5%BF%A0%E5%AE%97

 豊臣氏とのあいだに大坂冬の陣の講和が成立した直後の1614年末には、伊達政宗の長男である秀宗<(注56)>が宇和島に10万石を与えられて独立した。

 (注56)1591~1658年。「誕生・・・の時点では、政宗の正室・愛姫に男子がいなかったため、周囲からは「御曹司様」と呼ばれて伊達家の家督相続者と目されていた。・・・1594年・・・、政宗に伴われて秀吉に拝謁し、秀吉に人質として差し出される事になり、伏見城で養育された。
 ・・・1595年・・・7月に秀次事件が起こると、豊臣秀次と親密[で、秀次の家老の粟野秀用は元は政宗の家臣 https://study-z.net/100082318/4]だった<ことなどから、>政宗もこの事件に連座し、隠居して家督を兵五郎に譲ることと伊達家の伊予への国替えを秀吉から命じられた。結局は徳川家康の取りなしにより許されたが、8月24日に在京の重臣19名の連署による起請文提出を命じられ、「もし政宗に逆意があればただちに隠居させ、兵五郎を当主に立てる」旨を誓約させられている。
 ・・・1596年・・・5月9日、豊臣秀吉の猶子となり、秀吉のもとで元服し、偏諱を受けて秀宗と名乗った。従五位下侍従に叙位・任官され、豊臣姓も授かっている。豊臣秀頼のお側小姓として取り立てられた。
 秀吉死後の・・・1600年・・・に五奉行の石田三成らが五大老の徳川家康に対して挙兵(関ヶ原の戦い)すると、三成方の宇喜多秀家の邸にて、対伊達政宗の人質となる。
 ・・・1602年・・・9月、徳川家康に拝謁し、徳川氏の人質として江戸に向かった。だが正室である愛姫(このとき、数え年で政宗36歳、愛姫35歳となっており、当時としてはかなりの高齢出産であった)との間に虎菊丸(のちの伊達忠宗)が生まれ、夭逝せずに無事に育ったため、・・・1603年・・・1月に政宗は虎菊丸を家康に拝謁させ、秀宗の立場は微妙になりだした。・・・1609年・・・、秀宗は家康の命令で徳川四天王で重臣の井伊直政の娘の亀を正室として、徳川陣営に取り込まれる事になる。だが弟の虎菊丸が・・・1611年・・・12月に江戸城で元服し、将軍秀忠から一字を賜って忠宗と名乗った事により、事実上秀宗は伊達家の家督相続者から除外されることになった。この事情に関しては政宗の長男であったが、生母の飯坂氏が側室だったために本家の家督を嗣ぐことができなかったとされてきたがこれは誤りと言われており、「秀」の通字を受けて秀吉・秀頼の側に仕え、一時は豊臣姓まで賜った秀宗が徳川氏の世では仙台藩主としてふさわしくないという理由で実際には除外されたとされている。
 このため別家を興すことを父・政宗が考える。・・・1614年・・・の大坂冬の陣には父と共に参陣し、初陣を飾る。戦後、大御所徳川家康から参陣の功として政宗に与えられた伊予宇和島10万石を別家として嗣ぎ、同年12月25日にその初代藩主となった。・・・
 ・・・1620年・・・、家老山家公頼は一族皆殺しにあう。・・・「御成敗」であった。
 秀宗はこれを幕府や政宗に報告しなかったことから、激怒した父によって勘当される。公頼はもともと政宗の家臣であり、本家側の人間であった。そのためか、事あるごと様々なことに口を挟んだため、秀宗は疎ましく感じていたとされる。さらに翌・・・1621年・・・、怒りの収まらない政宗は老中土井利勝に対して宇和島藩の返上を申し入れた(和霊騒動)。結局、利勝のとりなしで政宗は申し入れを取り下げ、政宗と秀宗は面会し、その場で秀宗は、長男であるにもかかわらず徳川時代に入って仙台藩の家督を嗣げなかったことや、長期にわたって人質生活を送らされていたことから、政宗に対しかなりの恨みを持っていることを話した。政宗もその秀宗の気持ちを理解し、勘当は解かれた。この件をきっかけとして親子の関係は良好になったとされる。
 その後、秀宗は藩政に注力した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E7%A7%80%E5%AE%97

⇒「注56」が言う秀次事件の時の政宗の「受難」は、粟野秀用(注57)の話を含め、よく分からないので、機会があれば、再訪したいですね。

 (注57)あわのひでもち(?~1595年)は、「当初は伊達政宗の家臣であったが、罪を犯し、死罪に処せられることを知って逃亡。京都に出奔。尾張国で豊臣秀吉に仕えた。勇敢な働きによる軍功をあげて知行1万石を与えられた。これを聞いた政宗は人を介して秀用を引き渡すように請うたが、秀吉は自分に仕えて功をあげて扶持を与えた者だからと拒否した。政宗は敢えてそれ以上求めず、秀用は益々忠勤するようになった。
 ・・・1585年・・・、四国攻めに従軍。その功により伊予正木城10万石を与えられ、木工頭にも任じられた。その後、豊臣秀次に転属、その重臣なって3万石を加増され、さらに・・・1590年・・・また3万石を追加された。この所領の中には三河国碧海郡池鯉鮒村1,000石が含まれている。
 ・・・1595年・・・の秀次事件に連座して、京の三条河原にて斬首、または大雲院に入って秀次の無罪を訴えて自害した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%9F%E9%87%8E%E7%A7%80%E7%94%A8

 なお、関ヶ原の戦いの時に、宇喜多秀家が秀宗を預かったのは、秀家自身も秀吉の猶子で、その正室の豪姫(前田利家の娘)も秀吉の養女だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E7%A7%80%E5%AE%B6
からでしょう。
 池田輝政、及び、輝政の父の恒興、輝政の妹の若政所(豊臣秀次の正室)、の話は、別の機会に「」。(太田)

 伊達氏懐柔策である。
 こうした状況をみると、幕府が、外洋大型帆船サン・ファン・バウティスタ号の建造を認め、幕府の外交方針とは異なる遣欧使の派遣を了解した背景に、政宗の要望を容認せざるをえない地政学的関係にあったのである。」(252~254)

(完)