太田述正コラム#12281(2021.9.22)
<三鬼清一郎『大御所 徳川家康–幕藩体制はいかに確立したか』を読む(その5)>(2021,12.15公開)

 「1911(明治44)1月19日付の『読売新聞』は、「南北朝対立問題–国定教科書の失態–」と題する社説を掲げた。
 これが論争の発端となり、南朝正統論を鼓吹する絶好の機会となったのである。
 当時、教師用に刊行された『尋常小学日本歴史」には、「南北朝の対立は一時的な現象で、安易に軽重を論ずべきではない」という内容が盛られていた。・・・
 この議論は、2月4日に大阪府選出の代議士藤沢元造<(注12)>(げんぞう)(無所属)が衆議院に質問書を提出したことで政治問題化した。

 (注12)その父親の藤沢南岳(1842~1920年)は、「儒学者。・・・大坂の泊園書院を父から継承し、数千人の門人を擁した。異端を排除し、主君に対する忠義を重んじた。高松藩に仕え、佐幕派だった藩論を一夜で朝廷派へと変換した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B2%A2%E5%8D%97%E5%B2%B3
 「早稲田大学の講師松平康国氏と、牧野謙次郎氏が、藤沢元造代議士を動かし<た。>」
http://www.ashikagatakauji.jp/nanboku/seijyun02.html

 野党は、その直前に起きた「大逆事件」と関連づけて桂太郎内閣の責任を追及する構えをみせた<(注13)>が、政府は南朝を正統とする教科書に改訂することを確約して事態の収拾をはかった。

 (注13)「幸徳秋水<(1871~1911年)は、>・・・高知県幡多郡中村町(現在の高知県四万十市中村京町二丁目)に生まれる。幸徳家は、酒造業と薬種業を営む町の有力者で、元々は「幸徳井(かでい)」という姓で、陰陽道をよくする陰陽師の家であった。尚、妻師岡千代子の父は幕末の尊王攘夷運動で活躍し、足利三代木像梟首事件の首謀者とされている国学者の師岡正胤である。
 9歳の時、儒学者・木戸明の修明舎に入り、四書五経等を学ぶ。11歳で旧制・・・中学・・・に進学するも、台風で校舎が全壊しなかなか再建されず退学。・・・
 秋水が法廷で「今の天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器を奪いとった北朝の天子ではないか」と発言したことが外部へ漏れ、南北朝正閏論が起こった。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E5%BE%B3%E7%A7%8B%E6%B0%B4
 「足利三代木像梟首事件(あしかがさんだいもくぞうきょうしゅじけん)は、幕末の・・・1863年4月9日・・・深夜に、京都の等持院霊光殿に安置されていた室町幕府初代将軍・足利尊氏、2代・義詮、3代・義満の木像の首と位牌が持ち出された上、正当な皇統たる南朝に対する逆賊とする罪状が掲げられ、賀茂川の三条河原に晒された事件である。足利氏に仮託して徳川討幕の意を表現したもので、幕末の尊攘運動のひとつ。
 犯人は富商、農民、医師、浪士ら十数人で、伊藤嘉融・梅村真一郎(島原藩)、石川一(鳥取東館新田藩)、仙石佐多男(鳥取藩)、岡元太郎・野呂久左衛門(岡山藩)、中島錫胤(徳島藩)、北村義貞(姫路藩)、角田忠行(岩村田藩出身の神職)、三輪田元綱(伊予国出身の神職)、師岡正胤、青柳高鞆、長尾郁三郎、健部健一郎、近江国の豪商国学者西川吉輔)、高松平十郎(北辰一刀流虎韜館師範代)、宮和田勇太郎(剣客宮和田又左衛門の子)、小室利喜蔵ら、平田派国学の門人であり、会津藩士の大庭恭平や長沢真事も関与していた。」
 当時の京都はさながら平田門人総結集の様相を呈し<てい>た<ところ、>・・・全国の平田派を束ねる立場であった平田銕胤(平田篤胤養子)・・・自身は藩命を帯びての上京であり、この事件にはまったく関与していなかったが、心情的には門弟たちの行為は是とされるべきと考えていたものと思われ、久保田藩への探索報告書である『風雲秘密探偵録』には、事件関係者を一斉捕縛・殺害した京都守護職松平容保を藩主とする会津藩に対する備前国岡山藩の厳重抗議文、また、草莽諸士による関係者赦免要求の諸建白を収載している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E4%B8%89%E4%BB%A3%E6%9C%A8%E5%83%8F%E6%A2%9F%E9%A6%96%E4%BA%8B%E4%BB%B6

⇒要するに、幸徳秋水も藤沢元造も日蓮主義者なのであって、昭和天皇(1901~1989年)は、自分が敬愛する明治天皇暗殺を密謀した(とされた)秋水が『大日本史』史観を所与のものとする、従って日蓮主義者である、と見、そのため、この「事件」は、同天皇が、日蓮主義者に対する嫌悪感を抱くきっかけの一つになったのではないでしょうか。(太田)

 さらに藤沢が質問書を撤回して議員を辞職したので問題は終結した。
 ここで明らかになったのは、文部省の異常なまでの対応ぶりである。
 『大日本史』は光厳天皇をはじめ北朝系の五天皇の事歴を後小松天皇の項目で記述し、北朝系の后妃・皇子・皇女も立項しているが、文部省教科書は北朝の五天皇を「歴代表」から削除し、存在そのものを抹殺した。
 文部省教科書では逆賊とされている足利尊氏は、『大日本史』では鎌倉将軍と同等に扱われ、その死については「薨」を用い敬意を払っている。
 両者の違いは際だっている。・・・」(79~81)

⇒足利三代木像梟首事件の犯人達も秋水も元造も、そして、文部省も、『大日本史』/徳川光圀のホンネの史観を正しく把握していたのであって、三鬼が文部省(ら)の把握の仕方を「異常」だと指摘することこそ異常でしょう。(太田)

(続く)