太田述正コラム#12285(2021.9.24)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(補遺)(その2)>(2021.12.17)

 「池田光政<(1609~1682年)は、>・・・姫路藩の第2代藩主・池田利隆<・・輝政の長男・・>の長男<で、>母は2代将軍徳川秀忠の養女(榊原康政娘)・鶴姫。・・・播磨姫路藩の第3代藩主、因幡鳥取藩主、備前岡山藩の初代藩主。・・・水戸藩主の徳川光圀、会津藩主の保科正之と並び、江戸時代初期の三名君として称されている。・・・幕府が推奨し国学としていた朱子学を嫌い、陽明学・・・を藩学として実践した。この陽明学は自分の行動が大切であるとの教えで、これを基本に全国に先駆けて藩校を建設、藩内に庶民のための手習所を数百箇所作った。・・・のちに手習所を統一して和気郡に閑谷学校を造った。・・・神儒一致思想から神道を中心とする政策を取り、神仏分離を行なった。また寺請制度を廃止し神道請制度を導入した。儒学的合理主義により、淫祠・邪教を嫌って神社合祀・寺院整理を行い、当時金川郡において隆盛を極め、国家を認めない日蓮宗不受不施派も弾圧した。このため備前法華宗は壊滅している。こうした光政の施政は幕府に睨まれる結果となり、一時は「光政謀反」の噂が江戸に広まった。しかし、こういった風説があったにもかかわらず、死ぬまで岡山32万石が安泰であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%85%89%E6%94%BF

⇒私の仮説ですが、徳川光圀(1628~1701年)(コラム#12170)は、光政の姿勢や考え方・・私の見るところ、日蓮主義に則ったもの・・を大いに参考にしたのではないでしょうか。(太田)

 「幕末に<岡山藩の>9代藩主となった茂政は、水戸藩主徳川斉昭の九男で、鳥取藩池田慶徳や最後の将軍徳川慶喜の弟であった。このためか勤皇佐幕折衷案の「尊王翼覇」の姿勢をとり続けた。しかし戊辰戦争にいたって茂政は隠居し、代わって支藩鴨方藩主の池田政詮(岡山藩主となり章政と改める)が藩主となり、岡山藩は倒幕の旗幟を鮮明にした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E8%97%A9

⇒だからこそ、光政の長男で岡山藩の第2代藩主の池田綱政
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E7%B6%B1%E6%94%BF
の6代目、池田家の男系からは5代目、という
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E7%B4%80
縁戚と言い難い、茂政を水戸徳川家からインポートすることに抵抗感がなかったのでしょうね。
 もう少し詳しく振り返ってみましょう。(太田)

 「備前岡山藩の第7代藩主<の>・・・池田斉敏<(なりとし。1811~1842年)は、>・・・薩摩藩主・島津斉興の次男として江戸屋敷で生まれる。生母は斉興の正室・・・弥姫・・・(鳥取藩主・池田治道の四女)<で、島津斉彬の同父母弟>。・・・。嗣子のいなかった斉敏は、大叔父にあたる奥平昌高<(注)>の十男・七五郎(後の慶政)を仮養子として・・・岡山において死去した。・・・

 (注)1781~1855年。「薩摩藩主・島津重豪の次男」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B9%B3%E6%98%8C%E9%AB%98

 七五郎は斉敏と異なり、それまでの池田家一族とは直接の血縁関係がなかったため、支藩の鴨方藩主・池田政善の娘宇多子を斉敏の養女とし、婿養子として七五郎を迎える手順をとった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%96%89%E6%95%8F
 「<この>岡山藩8代藩主<の>・・・池田慶政<(1823~1893年)は、>・・・実父の奥平昌高を通じて池田輝政の子孫ではあった。ただし、輝政の娘の子孫である。・・・
 <藩政>改革<が>失敗に終わった<こともあり、>1863年・・・、病気を理由に家督を水戸藩主徳川斉昭の九男であり養嗣子としていた茂政に譲って隠居した。これは、尊王派であった藩士江見陽之進の進言に従ってのことである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%85%B6%E6%94%BF

⇒そもそも、斉敏のインポートを決めたのは、島津斉彬の大叔父の池田慶政だったわけであり、近衛/島津家の日蓮主義によって、池田家の日蓮主義は改めて活性化させられた、と言えそうです。(太田)

 「岡山藩9代藩主<の>・・・池田茂政<(1839~1899年)は、>・・・徳川斉昭の九男(庶子)<。>・・・1863年・・・、岡山藩主池田慶政の婿養子となり、・・・慶政の隠居により家督を継いだ。これは当時の岡山藩で、尊皇攘夷かただの尊皇を行なうかで藩論がまとまらなかったため、慶政が藩士の江見陽之進の進言を容れて、尊攘派の盟主的な存在であった斉昭の子を家督に就けることにより藩論をまとめようとしたためといわれる。・・・
 藩主就任後は、父の斉昭の影響を受けて尊王攘夷を主張し、藩論を主導するとともに、兄の鳥取藩主池田慶徳とともに朝幕間を周旋した。立場としては、尊王攘夷の貫徹であり、また「天皇優位の公武合体」の実現ということを望んでいた。そのため、将軍が朝意を奉じて攘夷を実行することを望み、<1863>年・・・、茂政は池田慶徳、米沢藩主上杉斉憲、徳島藩世子蜂須賀茂韶とともに参内して、当時真木和泉らが計画していた攘夷親征を中止すべきだと奏上した。
 一方で、長州藩に対しては友好的であり、八月十八日の政変で長州藩を中心とする尊攘派が京都から追放された際には、朝廷に対し長州藩への寛仁の処置を懇願している。また、<1864>年・・・にも、朝廷に毛利敬親・広封父子の寛宥の沙汰を要望し、幕府に対しては攘夷の奉勅を勧告した]。だが、こうした長州周旋に対し、幕府から、岡山藩は長州藩と手を結んで幕府に対抗しようとしているのではないかという嫌疑を受けることとなった。かかる嫌疑の中で、茂政は長州藩の違勅の暴挙には反対し、勧告したが、この態度を藩内の過激尊攘派から因循と論難されることもあった。
 禁門の変後、茂政の長州に対する態度は変わり、周旋を断るに至った。第一次長州征討に際して茂政は長州藩への寛仁の処置を主張したが、勅命遵守の立場から、名目的に一宮付近まで出馬し、家老池田出羽を広島まで派遣するにとどめた。第二次長州征討では、家臣の多くは出兵に反対し、茂政も同様であったが、結局、違勅の名を恐れ渋々備後路まで出兵することになった。
 ・・・1867年・・・、大政奉還にともない、朝廷から元尾張藩主の徳川慶勝らとともに上洛することを命じられる。王政復古の大号令後の・・・1868年・・・、15代将軍だった兄の徳川慶喜追討の勅命が出され、岡山藩も東征軍に参加するように命じられる。しかし、慶喜の弟である茂政は兄を討つための討伐軍に加わらず、3月15日に朝廷に対して病を理由に隠退・養子届けを出し、家督を鴨方藩主であった養嗣子の章政に譲って隠居する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E8%8C%82%E6%94%BF
 「岡山藩10代藩主<の>・・・池田章政<(1836~1903年)は、>・・・肥後人吉藩の第13代藩主相良頼之の次男。・・・頼之の祖父の相良長寛は岡山藩の第4代藩主池田宗政・・・の男系の玄孫にあたることから、鴨方藩池田家、のちには岡山藩池田宗家の養子に迎えられることになった。・・・
 戊辰戦争においては新政府軍に与して藩軍を関東・奥羽・函館にまで送った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E7%AB%A0%E6%94%BF

⇒こうなったのは、まことにもって自然な成り行きだった、と、思いませんか?
 この過程で、水戸徳川家出身の茂政・・慶喜の異母弟・・が藩主になったばかりの1863年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E8%8C%82%E6%94%BF
に、足利三代木像梟首「事件関係者を一斉捕縛・殺害した京都守護職松平容保を藩主とする会津藩に対する備前国岡山藩の厳重抗議」(冒頭)がなされたのは当然過ぎるくらい当然だったわけです。(太田)

(完)