太田述正コラム#12293(2021.9.28)
<三鬼清一郎『大御所 徳川家康–幕藩体制はいかに確立したか』を読む(その9)>(2021.12.21公開)

 「・・・1613<年>12月に家康は、金地院崇伝<(注20)(コラム#11474、11920)>に命じて「伴天連追放之文」<(注21)>を・・・漢文で・・・起草させた・・・。・・・

 (注20)以心崇伝(1569~1633年)。「室町幕府幕臣の一色秀勝の次男として京都に生まれた。名門の出身で足利将軍家の側近として将来を約束されていたが、・・・1573年・・・足利義昭が織田信長に追放されて室町幕府が滅亡したため、官寺中最も格式の高い南禅寺にて出家し<、やがて>・・・1605年・・・37歳で鎌倉五山第一位の建長寺住職となり3月には臨済宗五山派の最高位・南禅寺270世住職となり官寺の頂点に立ち、後陽成天皇から紫衣を賜る。・・・1608年・・・、相国寺の西笑承兌の推薦により徳川家康に招かれ駿府に赴き幕政に参画する。・・・
 外交、寺社対策、・・・禁中並公家諸法度<等、>・・・江戸幕府のすべての法律制定に関わった優れた学僧であったが、その権勢の大きさと朝廷の権威を喪失させ天皇を退位させるなど目的を達成する為の強引とも思える政治手法により、世人から「黒衣の宰相」「大欲山気根院僭上寺悪国師」と称された。また朝廷の権威を地に落とした紫衣事件では沢庵に「天魔外道」と評されるほどだった。しかし、崇伝自身は幕府の安定こそ世の中の安定とし、遺言としてすべては江戸の事を第一に考え平和を長続きさせ南禅寺の事は二の次に置くようにと弟子達に言い残しており幕府の安定の上の平和を第一としていた。・・・
 死後、一人で担っていた権能は分割され、寺社関係は寺社奉行を新設、外交関係は老中、長崎奉行が管掌、文教外交関係は林家が引き継いだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A5%E5%BF%83%E5%B4%87%E4%BC%9D
 (注21)抜粋読み下し文:「乾(けん)は父と為し、坤(こん)は母と爲す。人其の中間に生まる。三才是に於て定まる。夫れ日本は元是れ神国也。・・・・ 神と佛と其名異なりて、而して其趣一なるは、恰も符節を合するが如し。・・・・ 爰(ここ)に吉利支丹の徒党、適(たまたま)日本に来り、啻(ただ)に商船を渡して資財を通ずるのみに非ず、叨(むさぼ)りて邪法を弘め正宗を惑はさんと欲し、以て域中の政號を改めて己が有となさんとす。是れ大禍の萌(きざし)なり。制せずんばあるべからず。日本は神国佛国にして神を尊び佛を敬す。・・・・ 彼の伴天連の徒党、皆件(くだん)の政令に反し、神道を嫌疑し、正法を誹謗し、義を残(そこな)ひ善を損じ、刑人有るを見ては、載(すなわ)ち欣び載ち奔(はし)り、自ら拝し自ら礼し、是を以て宗の本懐と爲す。邪法に非ずして何ぞや。実に神敵佛敵なり。急ぎ禁ぜずんば、後世必ず国家の患(うれい)あらん。殊に号令を司って之を制せずんば、却て天譴(てんけん)を蒙らん。・・・・ 早く彼の邪法を斥け、弥(いよいよ)吾正法を昌んにせん。世既に澆季(ぎょうき・末の世)に及ぶと雖(いえど)も、益(ますます)神道佛法紹隆の善政也。一天四海宜しく承知すべし。敢へて違失する莫(なか)れ。」
http://nagasaki-shidankai.org/old/2011/shidankai_dayori/2015/201508_shidandayori.pdf
 「乾坤<は、>・・・天と地。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B9%BE%E5%9D%A4-491892
 「澆季<の>・・・「澆」は軽薄、「季」は末の意<。>・・・道徳が衰え、乱れた世。世の終わり。末世。」
https://kotobank.jp/word/%E6%BE%86%E5%AD%A3-477953

 日本は神国で、神は万物の根源をなすが、同時に、日本は仏教国でもあるという神仏習合の観念を土台に、仏は神の姿となって日本に現れ、衆生(生きとし生けるもの)を救済するという本地垂迹思想に基づいている。
 そ<の上で>、キリシタンは仏教・神道を軽んじ、正義に反して犯罪人を讃えるなど悪逆の限りを尽くす邪法であるから、日本という国を豊かにし、民が安穏に暮らせるためには、邪法を排除する必要があると主張している。・・・」(108)

⇒「伴天連追放之文」中の、「政號(政号)」の号は意味のない接尾語
https://kotobank.jp/word/%E5%8F%B7-493895
であると見て、問題は、ここでの「政」の意味なのですが、政(まつりごと)とは、「一 神を敬い慰撫・鎮魂し、祈願感謝すること。神をまつること。祭祀。・・・二 (古代においては、神をまつり、神の意を知ってそれを行なうことが、そのまま国を統治することであったところから、転じて) 君主・主権者が、その国の領土・人民を統一し治めること。政治。政道。」
https://kotobank.jp/word/%E6%94%BF-544412
という両義があるところ、後の方で「善政」という言葉も出て来ることから、やはり、二の意味でしょう。
 とすれば、崇伝は、伴天連教は、人間主義に立脚しておらず、人間主義に立脚する日本の政治を簒奪して捻じ曲げようとする・・「改めて己が有となさんとす」・・・ので、「斥け」なければならない、と、言っているのです。
 三鬼の解説は、言葉足らずどころか、「伴天連追放之文」の核心部分ぼやけさせてしまっています。
 「伴天連追放之文」に関しては、私は、崇伝を評価するけれど、「禁中並公家諸法度」は、それへの反発が明治維新をもたらした、とも言え、その限りにおいては、結果的にではあれ、後に日本の歴史を画期的に前進させる要因の一つになったものの、戦後日本の、権力者に隷属する装飾的存在に堕してしまった天皇制のいわば前例になったのであって、そういう意味では、崇伝は強く批判されてしかるべきでしょう。(太田)

(続く)