太田述正コラム#12351(2021.10.27)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その5)>(2022.1.19公開)

 (注8)1556~1630年。「近江国犬上郡藤堂村(現・滋賀県犬上郡甲良町在士)の土豪・藤堂虎高の<子>として生まれる・・・。・・・主君<:>浅井長政→阿閉貞征→磯野員昌→津田信澄→豊臣秀長→秀保→秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠→家光<。>・・・
 秀吉の死去直前から、徳川家康に接近する。高虎は元々家康と親交を有しており豊臣氏の家臣団が武断派・文治派に分裂すると、高虎は徳川家康側に与した。
 ・・・1600年・・・、家康による会津征伐に従軍し、・・・9月15日の関ヶ原本戦では早朝、大谷吉継を相手に戦闘を行った。その後、山中へ転戦して石田三成と戦ったとされる。また、留守中の伊予国における毛利輝元の策動による一揆を鎮圧している(毛利輝元の四国出兵)。更に脇坂安治や小川祐忠、朽木元綱、赤座直保らに対して、東軍への寝返りの調略を行っている。
 戦後、これらの軍功により家康からはそれまでの宇和島城8万石の安堵の他、新たに今治城12万石が加増され、合計20万石となった。・・・
 その後、高虎は徳川家の重臣として仕え、江戸城改築などにも功を挙げたため、・・・1608年・・・に伊賀上野藩主・筒井定次の改易と伊勢津藩主・富田信高の伊予宇和島藩への転封で今治城周辺の越智郡2万石を飛び地とし、伊賀国内10万石、並びに伊勢安濃郡・一志郡内10万石で計22万石に加増移封され、津藩主となる。・・・家康は高虎の才と忠義を高く評価し、外様大名でありながら譜代大名格(別格譜代)として重用した。
 ・・・1614年・・・からの大坂冬の陣では徳川方として参加する。翌年の大坂夏の陣でも徳川方として参戦し、自ら河内方面の先鋒を志願して、八尾において豊臣方の長宗我部盛親隊と戦う(八尾の戦い)。この戦いでは長宗我部軍の猛攻にあって、・・・600人余りの死傷者を出している。戦後、その功績により伊賀国内と伊勢鈴鹿郡・安芸郡・三重郡・一志郡内で5万石を加増され計27万石にな<った。>・・・
 家康死去の際には枕元に侍ることを許され<た。>・・・
 1617年・・・新たに伊勢度会郡田丸城5万石が加増され・・・津藩の石高は計32万3000石となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%A0%82%E9%AB%98%E8%99%8E

⇒まさに、浅井⇒織田(津田)⇒豊臣⇒徳川、と、変節と言えば変節、を、繰り返して大大名にまで上り詰めた高虎だったわけですが、「高虎公はもともと他宗門<・・不明(太田)・・>の方だったのですが、徳川家康公が75歳の生涯を終えられようとしていたときに、高虎公の手を取って「あなたがいなかったら天下太平の今日を迎えることは難しかった。心より感謝しています。ただ、心残りはあなたと私とで宗門が違っているため、来世の浄土が違ってしまいます。それを思うと辛く寂しい」と涙を流されました。それを聞いた高虎公も涙を流し「私はまったく至らない者ですが、上様と同じ天台宗<・・家康は本来は浄土宗だがハテ?(太田)・・>に改宗いたします」と即座に得度をし、「寒松院」の法名を戴いたのです。このとき法名を授けたのは、家康公が篤く信頼していた天海大僧正でした。」
http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/kanshoin/
と、宗門についても平気で変節をすると噂されたようである上、「幕末に鳥羽・伏見の戦いが起こった際、俗説では、当主藤堂高猷は真っ先に幕府方から官軍に寝返って幕府方に砲撃を加え、「津藩は藩祖の教えがよく受け継がれている」と称されたという。維新後、政府より戊辰戦争の戦功で2万3000石の賞典禄を下賜された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%A0%82%E6%B0%8F
と、子孫までけったいな言われようをされることになってしまったようですね。(太田)

(続く)