太田述正コラム#12367(2021.11.4)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その13)>(2022.1.27公開)

 「・・・戦国時代には、金・銀・銅銭の三貨相互の価値変動が激しく、しかも使用者の階層性もあったが、石高制が採用されたため、米穀を中心とする国内相場が本格的に成立することになった<(注20)>。

 (注20)「もっとも初期の米取引は特定の会所をもつことなく,随時仲買が寄集して相場立てを行ったと思われ,各地の米会所の成立年次は明確でなく,興廃・中絶も一様ではないが,西廻海運開通以前,北国米・江州米の集散地であった大津では,1644年・・・に成立している。・・・
 大坂では、・・・江戸時代,・・・もと淀屋に町人蔵元が集って米市を立て相場を争っていたが,・・・1696・・・ 年淀屋闕所 (けっしょ) ののち・・・堂島・・・に米市場が移り,・・・1731・・・ 年米仲買に株が許されてのちは,米仲買,両替屋,蔵屋敷が,蜆川,堂島川間の砂州に集中し,とりわけ浜通1丁目の米相場が有名になった。米 100石単位の延べ売買を行う帳合米商内 (ちょうあいまいあきない) をはじめ,米切手による正米市 (しょうまいいち) ,小口の取引である虎市 (とらいち) も立ち,米方年行司を選んで取締りを行なった。・・・1730年・・・帳合(ちょうあい)米取引(帳簿上で行う一種の先物取引)が公許されたあと、正米(しょうまい)(現物)取引も引き続き行われたが、実際には米切手の売買であり、諸藩領国からの未廻着(みかいちゃく)米を見越した切手の過剰発行がしばしばなされ、空米(くうまい)切手ないし空米取引事件として紛議を起こした。・・・<17>71・・・年米会所ができ,明治以後は大阪堂島米商会所に引継がれた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A0%82%E5%B3%B6%E7%B1%B3%E5%B8%82%E5%A0%B4-103668

⇒「戦国時代には」が全体の主語になっているため、米市場の成立も戦国時代であるかのように読めてしまう文章ですが、実際には、「注20」の通りであり、江戸時代になってからのようですね。(太田)

 あわせて、必ずしも実高には合致しない家格としての石高で軍役を定めたことで、安定的な軍制を敷くことができたことも重要である。・・・
 石高制成立の契機となった太閤検地については、半世紀以前に安楽城(あらき)盛昭<(注21)>氏が・・・ヨーロッパとは異なり近世大名とその家臣に所領の売買がみられないという事実に着目し、封建領主的土地所有が単一のものとして存在し、それが関白・将軍によって掌握され、大名の所領は、一時的に預け置かれているにすぎないとみ<ておられるところ>、私見とまったく一致する。

 (注21)1927~1993年。両親とも沖縄出身。一高・東大経卒。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%89%AF%E5%9F%8E%E7%9B%9B%E6%98%AD
 「東大社会科学研究所助教授をへて,昭和48年沖縄大教授となる。53-55年沖縄大学長。のち大阪府立大教授。専攻は近世史。太閤検地の研究で日本史の時代区分論争をまきおこす。・・・江戸時代をも農奴制に基づく社会とみなすことによって,中世・近世をあわせて封建社会=中世社会とし,中世をその前期,近世を後期とに区分しつつも全体として領主制の形成から崩壊までの過程を考えようとする永原慶二らの見解が生まれた。一方,中世と近世との差異を本質的とみて,中世を家父長的奴隷制社会,近世を農奴制社会とする安良城盛昭の説も現れた。こうした安良城による中世社会の規定については異論も多いが,中世を近世社会と区別された独自な社会とする見方は最近では広く認められるようになっている。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%89%E8%89%AF%E5%9F%8E%E7%9B%9B%E6%98%AD-1051198

⇒「注21」に出て来る、永原・安楽城「論争」、今更ながら、日本の戦後のマルクス主義唯物史観全盛期の、珍論の鼻くそ奇論の目くそを嗤う、類の「論争」だったと思いますね。(太田)

 安楽城氏は、以上の見解をふまえて・・・1578<年>6月18日付のキリシタン禁令・・・第三条を重視した。
 一、その国郡知行の義、給人に下され候事は当座の義に候、給人は替り候といえども、百姓は替らざるものに候条、理不尽の儀何かに付きてこれ有るにおいては、給人を曲事(くせごと)に仰せ出さるべく候間、その意をなすべく候事、
 大意は、国や郡について、大名家臣に知行地が与えられても、あくまでも当座のことである。
 家臣は大名の国替に従って替わってゆくが、百姓はその土地に居続けるものであるので、理不尽なことが発生したならば、家臣を法に背いた行為として処分するので、そのように心得るようにせよ、というものである。
 後の徳川家綱の治世以降、幕府や藩は百姓に対してあわれみをもち仁政を施すことをめざしてゆくが(文治政治)、・・・すでに秀吉の段階でその方向が打ち出されていることはきわめて重要だ。
 ただし、豊臣期において一揆百姓に対する虐殺も少なくなかったことから、理念の域を出なかったといってよい。」(42、44~45)

⇒秀吉の仁政が理念の域を出なかったかどうかはともかくとして、仁政は、日本の統治者達にとっての、統一国家(ヤマト王権)成立時にまで遡る常識的規範だった、と、私は一貫して指摘してきたところです(コラム#省略)が、藤田は、あたかも、仁政が秀吉に始まるかのような記述を行っていて、いかがなものかと思います。(太田)

(続く)