太田述正コラム#12369(2021.11.5)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その14)>(2022.1.28公開)

 「・・・<1588>年5月吉日成立の大村由己<(注22)>の「聚楽行幸記」には、秀吉が清和天皇の摂政藤原良房による摂関政治を手本としてめざしたとされており興味深い。

 (注22)ゆうこ(1536?~1596年)。「青柳山長楽寺(三木大村金剛寺の塔頭)の僧、頼音房が大村由己の前身である。若年の頃、京の相国寺において仁如集尭より漢学を学び、諸家の門を叩いて歌道を修め、その深い学識で世に知られた。羽柴秀吉の三木城攻めで大村一帯が秀吉の勢力圏となっていた時に、秀吉の祐筆となったといわれている。・・・1582年・・・の秀吉の中国大返しの際、姫路城における軍議にも参加していることから、この時期には既に秀吉の側近としての地位を確立していたものと思われる。同年、大坂・天満宮の別当となる。
 天下統一に邁進する秀吉に近侍して、彼の軍記である『天正記』などを記述した。いずれも秀吉の偉大さを殊更強調して書かれたものであり、由己は豊臣政権の正統性を訴えるスポークスマンとしての役割を担っていたのではないかと推察されている。
 文禄の役では秀吉に従って肥前名護屋まで従軍した。当時の秀吉は能に傾倒すること甚だしく、既存の作品を演じるだけでは飽き足らず、由己に自身の偉業を後世に伝える新作能の作成を命じたといわれている。『吉野花見』『高野参詣』『明智討』『柴田討』『北条討』はいずれも秀吉を主役にとった由己作の新作能である。 特に『明智討』は・・・1594年・・・3月15日に大坂城で、4月12日に禁中で、それぞれ秀吉本人の手によって披露されていることから、秀吉のお気に入りであったことが伺える。
 上記の軍記物や新作能以外に、謡曲・和歌・連歌・俳諧・狂歌などに多彩な才能を発揮した。藤原惺窩や山科言継・里村紹巴など、同時代の知識人たちとの交友も知られている。また、『梅庵古筆伝』を著すなど、古筆への造詣も深かった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E7%94%B1%E5%B7%B1

 天皇を中心とする古代政治にならうことを、支配の正当性としていたのだ。

⇒だから、信長、秀吉が行おうとしたのは、(日蓮主義遂行のためだったわけですが、その点はさておき、中央集権体制への)復古なんだよ、と、口を酸っぱくして私は言ってきている次第です。
 で、家康が、復古が完遂されないうちにその途上で国制を凍結してしまったので、19世紀後半にもなって、改めて、「復古」が叫ばれなければならなかった、というわけです。(太田)

 さらに北条氏攻撃をひかえた・・・1589<年>9月に、秀吉は全豊臣大名に対して夫人とともに在京することを命令し、諸大名はこれに応じた・・・。
 古代にみられた在京する公家による国家支配は、ここに復活を遂げたのである。
 ・・・<また、>主従制支配の限界を克服すべく、秀吉は官職制度を積極的に政権内部に持ち込んだ。
 具体的には、諸大名を公家にすることによって在京させ、上方に巨大な支配共同体を創出することに直結したのである。
 これが、国許との参勤体制の構築につながり、分権国家から集権国家への転換を急速に進めてゆくことになった。
 天下統一から朝鮮出兵の時期にかけて、大名当主は京都や伏見と肥前名護屋や朝鮮半島の戦場を往復する日々となり、国許にはほとんど帰ることができなくなってしまう。
 国許では、城郭普請や太閤検地がおこなわれており、地域社会では未曽有の疲弊が蓄積されていた。・・・

⇒この部分も、一つでいいから、例を挙げて欲しかったところです。(太田)

 当時、本領からの武士の移住、すなわち「侍払(さむらいばらい)」と呼ばれた豊臣政権の兵農分離政策<が>、<1585>年を画期として強硬に進められた・・・。
 あわせて国替に伴う百姓の移動が禁じられたことも重要である。
 たとえば、閏8月の国替の一環として近江佐和山から越前北庄(きたのしょう)への国替を命じられた堀秀政は、秀吉から入国に際して五ヵ条の定書・・・を受け取った。
 その第一条には、・・・国替に際して、大名家臣が替わるドサクサに紛れて、百姓が他村に移住することがあれば、本人のみならず、それを許容した村全体も処罰するという厳しい内容である。
 伊賀や大和では、国替に従わなかった在村武士に対して百姓になるのか、他国で仕官の道を選ぶのか迫ったのであるが、百姓に対しては在村からの移動の禁止を命じた。・・・
 一般的には、「兵農分離」政策と表現されているが、天下統一後の戦争においてすら、百姓も中間(ちゅうげん)や小者などの雑兵として戦闘に参加したことから、正確ではない。
 秀吉の政策の本質は、士すなわち主君をもつ武士が農村から離れて城下町に集住し、百姓が農村に緊縛されることだから、「士農分離」と呼んだほうが誤解がないと認識する・・・。
 ・・・<また、>1585<年>以降の天下統一過程で関白豊臣秀吉が発令した停戦令は、一方的に敵方と決めつけた戦国大名に対する軍事侵攻を正当化する論理を振りかざしたものだった。
 畿内を中心とする豊臣政権<が>誕生したのであるが、これまでの自領確定のための国分と、これ以降の遠国を対象とする国分とは、明確に区別するべきである。
 これを第二段階の豊臣国分と呼びたい。
 具体的には、九州国分、関東国分、そして奥羽国分(奥羽仕置)である。
 これらは、いずれも直接豊臣領とは接しない遠国の大名間の国郡境目相論に、関白の立場から停戦令を発することで強制介入したものであった。
 九州停戦令は、停戦を命じただけではなく、紛争裁定とそれにもとづく国分執行がセットになっている点が、信長の停戦令とは際立った違いである。・・・
 あらかじめ秀吉は敵対大名を想定し、豊臣化を表明した大名には軍事物資などの援助をおこなっており、・・・当初より、中立の立場から大名間の境目相論を公平・公正に裁定しようとするものではなかった。・・・

⇒ここまでは、珍しく、藤田の指摘には首肯し続けですね。(太田)

 政権の掲げるスローガン「天下静謐」「惣無事」の美辞を真に受ける者は、大名はもとより民衆においてすら存在しなかったであろう。・・・
 同時代史料で豊臣政権が検地について言及した唯一の史料の・・・<1585>年10月に成立した大村由己「四国御発向幷(なら)びに北国御動座記」・・・<の、>この年に近江坂本城で命じた全所領規模の国替に続<く、>・・・検地の歴史的由来に関する説明部分に着目したい。
 この年に「五畿七道図帳」を作成したとするのであるが、その由緒を「十三代成務天皇」による「国堺を分かち」や、「四十五代聖武朝」による「田地の方境を定む」に求め、その後、国境や田地境に「増減」があったにもかかわらず改めなかった。
 このたび関白秀吉がそれらの入り組をなくすべく検地を執行したため、国境相論や訴訟がなくなったというのである。・・・
 これは、あくまでも理念の問題ではあるが、主従制原理では説明できない国制的な側面からの説明としてきわめて貴重である。」(53、62~64、67~69)

⇒何度も恐縮ですが、復古なんです!(太田)

(続く)