太田述正コラム#1484(2006.11.3)
<履修漏れ事件と日本の教育(その2)>

3 亀井信明氏の指摘について

 (1) 亀井信明氏の指摘
  ア 始めに
 http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20061101/112923/(11月2日アクセス)掲載のインタビューから、亀井信明氏の指摘をピックアップして以下(イ??エ)に掲げました。小見出しは私がつけました。

  イ 子供達の多様なニーズを無視した画一的な学習指導要領
 大学進学率が5割、専門学校などを含めれば8割が高校卒業後にさらに高度な教育を受ける時代です。入試科目や問われる資質は千差万別なのです。・・<それどころか、>受験勉強じゃなくて芸術を一生懸命やりたいという子供もいるし、中田(英寿)やイチローみたいな選手を目指すほうが東大に入るよりもいいという子だっているんです。・・そういう中で、文部科学省の学習指導要領が非現実的になっているのです。現場とのギャップがあまりにも大きい。東大を受ける子も、私大文系を受ける子も、<芸術をやりたい子もスポーツ選手を目指す子も、>一律に同じようにやりなさいというのですから。・・

  ウ 難関大学を目指す子供のニーズにも答えていない学習指導要領
 <しかも、>進学重点校なるものがいっぱい作られているのです。私立の中高一貫校に負けるなと、公立高校にも進学実績を残すことが求められている。・・ところが、現行教育課程は・・ゆとり教育<や>・・学校の週5日制を導入しました。授業の時間枠が縮小したのに進学成果を残せと言われ、教育現場にはすさまじいプレッシャーをかかっています。しかも、センター試験の科目負担は増える方向にある。現場は頭を抱えているんです。履修漏れのようなことは多かれ少なかれどんな高校でもやっていますよ。叩けばいくらでも埃が出ます。・・文科省の施策は矛盾だらけです。スーパーサイエンスハイスクールとか、スーパーランゲージハイスクールとか、百何十校もの指定校を認めたりしているのに、そんな学校の生徒に対しても、現代社会は必ず何単位履修しなさい、家庭科もやりなさい、保健体育もやりなさいと言っている。・・
 まだマスコミは問題にしていませんが、実はもう1つ大きな問題があります。・・国の検定を受けた教科書なんて使ってない学校がいっぱいあるんですよ。・・国が指定する教科書で勉強していたら、難関大学には絶対合格できません。・どんな地方都市にでも塾はありますが、難関大学に受からすための指導ができる塾なんて、大都市のようにはありません。東京だったら予備校がやってる2次試験対策みたいなことを、高校の先生がやってるんですよ。・・建前の議論はやめて現実を直視すべきです。建前というのは、「受験勉強というのは良くないものであって、それを助長することは悪だ」という大認識です。・・

  エ ではどうすべきか
 <とはいえ、学習指導要領を廃止して>一切の制限をなくしてしまう<と>めちゃくちゃなことになるでしょうね・・。
 私も高校を卒業するための必要最低条件を設定することは必要だと思います。高校側の裁量権を拡大するにしても、やはり何らかの基準は設けなければならないでしょう。 いろいろな意見がありますが、「高校卒業認定試験」みたいなものをやればいいという説を唱えている人もいるんです。高校卒業レベルの基礎知識が身についているかどうかを統一試験を行って認定するのです。これなら大学受験の科目には左右されません。センター試験をそう変えたほうがいいと言う人もいます。
 <結局、最大の問題は、>これからの日本に必要な人間のベースを作る教育っていうのはいったい何なんだという議論が欠け落ちている<こと>です・・。

 (2)感想
 亀井氏は、専門家(河合塾で企画・管理業務等に携わり、現在、教育コンサルタント)だけあって、立花氏よりは整理された議論を展開していると思います。
 しかし、それでも、いくつか問題があります。
 第一に、これは立花氏と共通の問題点なのですが、亀井氏も、エリート教育が問題だと言っているのか庶民教育が問題だと言っているのか判然としないことです。いや、実はお二人ともエリート教育を論じたいのだけれど、ポリティカル・コレクトネスの観点から、意識的、無意識的にそれをぼかして議論を展開している、と言ってよいでしょう。
 第二に、あるべき論については、立花氏がゆとり教育の撤回を求めていて、それが妥当かどうかはともかくとして、明快であるのに対し、亀井氏は、学習指導要領の柔軟化を求めているけれど、共通教育として何を残すかについては、具体案を提示していないことです。

4 総括的コメント

 (1)始めに
 私の、日本の教育あるべき論については、折に触れて申し上げてきたところであり、ここでは繰り返さないことにし、感じたことを思いつくままに申し述べておきたいと思います。
 
 (2)入試実績と学校の善し悪しは必ずしも同じではない
 東の日比谷高校(戦前は府立一中)と西の灘高校(ただし中高一貫校。戦前は灘中学)は、東大合格者数を、学校群制度の導入によって前者が事実上その歴史を閉ざした1960年大末まで、競いあったことはご存じの方が多いでしょう。
 その灘が、履修漏れをやっていたことが今般明るみに出ました(
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20061101/mng_____tokuho__000.shtml
。11月1日アクセス)。
 要するに、灘は単なる受験予備校だったということです。
 他方、私が出た日比谷高校は、色々問題もあったけれど、少なくとも受験予備校では断じてありませんでした。
 だまされたと思って、両校の卒業生にどんな人がいるかを比較してみてください。
 日比谷は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E7%AB%8B%E6%97%A5%E6%AF%94%E8%B0%B7%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%BA%BA%E7%89%A9%E4%B8%80%E8%A6%A7(11月3日)に、灘は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%98%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%83%BB%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1
(11月1日アクセス)に載っています。
 もとより、1878年にできた日比谷と、1928年にできた灘とでは歴史の長さが違うのだけれど、その点をさっぴいても、日比谷が輩出した人材の厚みと多彩さは、灘とは桁違いです。
 これだけ見ても、教育というのは恐ろしいものだ、と改めて思います。
 ところが、日比谷は事実上今はなく、筑駒にも全く期待できません(コラム#1437)。

 (3)東大が更におかしくなっている
 あのような焦点の定まらない文章を書くのではもはや大学教師が勤まるとは思えない立花氏や、インチキ本を上梓するような原田氏を、教養学部の教師として採用するとは、東大は一体どうなっているのでしょうか。
 恐らく、ほかにもこんな教師がたくさんいるに違いありません。
 こんな教師達に、バカ呼ばわりされながら教わる東大生達に、心から同情を禁じ得ません。
 
(完)