太田述正コラム#12381(2021.11.11)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その20)>(2022.2.3公開)

 「・・・家康が・・・駿府に隠居したのが・・・1606<年>9月である。
 この時点で、東国政権の最前線となりうる存在は、近江佐和山城に配された譜代の井伊氏だった。
 井伊直政は、関ヶ原の戦いの恩賞として石田三成の旧領のうちの15万石と上野(こうずけ)国内3万石の合計18万石を預けられた。
 家康の駿府入りに呼応するように、<1608>年に伊予今治から伊勢・伊賀の22万石に国替したのが、藤堂高虎だった。・・・
 高虎は、伊勢津を藩庁としたが、海路で家康と直結していた。・・・
 このようにして、家康が不在となった京都周辺を任された井伊氏と藤堂氏が、最前線を守る藩屏としての役割を担うのだった。
 それが機能したのは、大坂夏の陣である。
 代替わり直後の井伊直孝と藤堂高虎が徳川軍の先鋒を任され・・・たのである。
 恩賞として、両家ともに五万石を加増される。
 さらに直孝と高虎は、従四位下侍従に任じられる。
 当時の諸大名のなかで、この官職は突出していた。
 藩の誕生を論ずるにあたって、第一の重要な指標<は、>・・・国替に際して藩主が将軍もしくは大御所から領知宛行状を与えられること、同時に四位もしくは五位といった官職(律令制度上は国司に相当する)に就くことである。
 藩主とは、主従制と官職制のなかに位置づけられる存在だった。
 第二の指標としては、幕府への忠誠を示すために、藩主が証人(人質)を預けることも不可欠である。
 <1605>年に徳川秀忠が二代将軍に就任したのに際して、高虎は他の外様大名に先駆けて松寿(しょうじゅ)夫人と嫡子高次を証人として江戸に差し出した。・・・
 <この>二つの指標によると、藩の誕生は、徳川氏の一門でも譜代でもない外様大名である高虎を藩祖とする藤堂藩から始まったといえる。・・・
 高虎が上方周辺の最前線に所領を預けられて藩づくりを任されたのは、・・・家康やその一門・譜代大名にはない高度な建設技術、朝廷につながる重要人脈や、上方出身の豊臣恩顧大名とのコネクションをもっていたからである。・・・
 慶長年間にお<いて、>・・・新たに入国する大名とその家臣団は、基本的に他国人の集団である。
 城と城下町を新たに造る場合、町人地や寺町をゾーニングし、商工業者や僧侶を他所から招き据えねばならなかった。
 彼らも、大名に従った者をはじめとして地付きの者は少なく、多くが新参者なのである。
 <伊勢津の前に高虎の藩庁であった>今治が典型例であるが、武士も町民も一緒になって新たな町づくりをおこなったのである。
 この工事には周辺の郷村に居住する百姓も加わったから、まさしく新たな国づくりのための共同事業として、身分を超えて広く一体感を醸成することになった。
 「藩」は、近世城下町というまったき人工都市=コンパクトシティと、それを支える村落社会からなる新たな地域国家としてスタートを切ったのである。
 その意味で、戦国大名の領国や織豊大名のそれとは、まったく異なるものだった。」(86~87、95、99~100)

⇒藤田が何を言っているのか、私には意味不明です。
 「織田信長と本願寺の間に戦われた石山合戦で1580年に顕如が退去した後の1583年に・・・大坂本願寺の跡地に豊臣秀吉が大坂城を築き、城下に配下の大名の屋敷や堺などの周辺の町々の町人を集めて、上町台地から大阪平野に広がる大坂の町を築いて再び政治・経済の中心都市とした」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA
ところの大坂、と、高虎時代の今治、との間に、一体、いかなる違いがあるというのでしょうか。
 秀吉は天下人だったのに対し、高虎は一大名に過ぎなかった?
 では、室町時代から戦国時代にかけて栄えたところの、「大内氏第9代当主大内弘世<(注36)>(1325年-1380年)が京の都を模倣し街づくりを行ったのを発端と<し、>第14代大内政弘(1446年- 1495年)が文化を奨励し、第16代大内義隆(1507年-1551年)が大寧寺の変で倒れるまで大内氏の当主」の本拠地であった山口
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%96%87%E5%8C%96
はどうでしょうか。

 (注36)「<父親が>周防国の武将<、。・・・大内弘幸<(?~1352年)であった>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E5%BC%98%E5%B9%B8
「大内弘世・・・は<、1351年、>南朝から周防守護職に任じられ、・・・1358年・・・長門守護職にも任じられ、大内氏が防長両国の守護となった。・・・2代将軍足利義詮は・・・、防長両国の守護職を認めることを条件として弘世に北朝への復帰を促し、・・・1363年・・・に弘世は足利直冬と南朝に見切りをつけて北朝に帰順した。・・・1366年・・・、足利義詮に拝謁のため上洛。その際将軍家近臣に多くの黄金と布帛を賄賂として贈り大いに名声を得たという。また同年、足利直冬率いる石見の南朝勢力を駆逐した戦功により石見守護にも任じられる。・・・従五位上周防権介、修理大夫」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E5%BC%98%E4%B8%96

 言うまでもなく、大内氏は一大名でしたよね。
 その大内氏は、人質こそ預けていなかったけれど、三ヵ国からなる事実上の地域国家の主として、征夷大将軍から三カ国の守護に任ぜられ、従五位上の官位にも就いていましたし、その本拠地の山口は、「大路・小路といった京風市街整備<が>行<われ、>・・・末期は京をしのぐほど繁栄した」(上掲)人工都市だったのですがねえ。(太田)

(続く)