太田述正コラム#12385(2021.11.13)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その22)>(2022.2.5公開)

 「家康は、まず西国の豊臣恩顧大名に刺激を与えないように、徳川系外様大名を西国の要地に配置し、それに伴って一門・譜代大名を西進させたのだ。
 彼らしいこの慎重な方法は、その後も継続される。・・・
 江戸時代初期、京都の宮廷から寛永文化<(注42)>が開花する。

 (注42)「寛永文化の中心は京都であったとされ、中世以来の伝統を引き継ぐ町衆勢力と後水尾天皇を中心とする朝廷勢力が、・・・江戸幕府に対抗する形で古典文芸・文化の興隆を生み出し、後に江戸においても儒学・武家を中軸とした文化が形成され、東西に2焦点の楕円形の文化構造が互いに交錯しながら各地に広がり、金沢などの地方都市を巻き込んでいった。・・・
 代表的な人物としては、茶の湯(千宗旦・金森宗和・小堀遠州)、生け花(後水尾天皇・池坊専好)、文学(安楽庵策伝・三浦為春・松永貞徳・烏丸光広など)、儒学(石川丈山・林羅山・堀正意)、禅(沢庵宗彭・一糸文守・鈴木正三)、寛永の三筆(近衛信尹・松花堂昭乗・本阿弥光悦)、書(角倉素庵・近衛信尋)、絵画(俵屋宗達・狩野探幽・狩野山雪・雲谷等益)、陶芸(野々村仁清)などが挙げられる。また当時の建築物としては智仁親王の桂離宮・後水尾天皇の修学院離宮・徳川家光の日光東照宮などが著名である。
 だが、身分文化の進行に加えて、内陸都市であった京都は水運ネットワークに乗る事が出来ずに経済的に低迷期に入り、代わりに上方の経済的中心となった大坂を中心とした元禄文化が花開く事になる。・・・
 彼らの作品は従来の教養主義的なものとは異なり、日常性が志向された・・・。・・・フランスの美術史家ネリ・ドゥレ(Nelly Delay)・・・は、こうした文化の大転換にあたってはヨーロッパ諸国との交流が大きな役割を果たしたと<し>・・・、異国から長崎にもたらされた珍奇な品々が日本商人の手によって各地にひろがり、その影響のもと、日本国内の工芸品や絵画に新しい意匠や趣向がとりいれられるようになったと<す>る」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%B0%B8%E6%96%87%E5%8C%96
 「元禄文化の第1の特徴は,文化の荷担者が都市の商工業者,いわゆる町人層によって構成されていたことにあり,日本文化史のうえで初めて庶民と呼びうる階層の生活,心情,思想が主題として表現されるに至った。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AF%9B%E6%B0%B8%E6%96%87%E5%8C%96-827026

 その中心メンバーが後水尾天皇や高虎の奔走で入内した東福門院(徳川秀忠息女和子)や、藤原氏支流を称した高虎が本宗家当主と仰いだ近衛信尋(後水尾天皇実弟)らであり、高虎の娘婿小堀遠州<(注43)>(遠江守政一・・・)もそれに連なった。・・・

 (注43)1579~1647年。「小堀氏の本姓は藤原氏で、・・・近江国坂田郡小堀村(現・滋賀県長浜市)に居住して村名を姓として名乗った。・・・小堀正次<・・遠州の父・・>は、縁戚であった浅井氏に仕えていたが、・・・1573年・・・の浅井氏滅亡後は羽柴秀吉の弟・秀長の家臣となった。・・・
 正次は関ヶ原の戦いでの<東軍の一員としての>功により備中松山城を賜り、・・・1604年・・・の父の死後、政一はその遺領1万2,460石を継いだ。浅井郡小峰邑主。
 ・・・1608年・・・には駿府城普請奉行となり、修築の功により、・・・1609年・・・、従五位下 遠江守に叙任された。以後この官名により、小堀遠州と呼ばれるようになる。
 居所としては、正次の頃から伏見六地蔵の屋敷があったが、越後突抜町(三条)にも後陽成院御所造営に際して藤堂高虎から譲られた屋敷があった。また・・・1617年・・・に河内国奉行を兼任となり、大坂天満南木幡町に役宅を与えられた。
 <1619>年9月・・・、近江小室藩に移封され、さらに<1622>年8月・・・に近江国奉行に任ぜられる。
 <1624>年12月・・・、伏見奉行に任ぜられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%A0%80%E6%94%BF%E4%B8%80

⇒次の東京オフ会「講演」原稿を読んでいただきたいが、和子の入内は、私見では、現在まで尾をひくこととなるところの、天皇家の転落をもたらすこととなる(、そういう意味では悲劇的な)大事件だったのですが、藤田が示唆しているように、入内後の後水尾天皇/上皇、に、和子/東福院が合力したからこそ、天皇家主導で寛永文化が生まれ、花開いた、と言えそうです。
 「注42」で言及されているドゥレの説は、そもそも、千利休の茶道が、キリシタン文化の影響を受けている(コラム#省略)こと一つとっても、中らずと雖も遠からずだと思いますね。(太田)

 遠州は、大和郡山城下に育ち、少年時代には利休に学び、青年時代には・・・利休の高弟<で、>・・・茶人大名として有名な・・・古田織部の弟子となり、茶道・作庭・焼物・立花・和歌はもとより、御所・城郭・寺社の作事にも抜群の才能を発揮した。
 ・・・1597<年>に遠州は高虎の養女を娶ったが、父子の伏見屋敷は隣り合っていた。
 ・・・1615<年>からは、六角越後町に並んで屋敷をもつようになる。
 <1617>年に遠州は大坂天満(てんま)に屋敷をもつが、<1619>年に高虎も同所に屋敷を構えた。
 このように、遠州は岳父に隣接して居所を定めた。
 上方で城郭や宮殿の建築とそれに附属する庭園の造形に抜群の才能を発揮した遠州であるが、総合芸術の基礎を学んだ場が伏見であり、実践したのが京都だった。
 それを援助したのが、岳父高虎だったのである。」(106~108)

(続く)