太田述正コラム#12387(2021.11.14)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その23)>(2022.2.6公開)

 「・・・京都にあった寝殿造りに系譜をもつ伝統建築は、応仁・文明の乱によって灰燼に帰していたが、奈良には法隆寺や興福寺などの第一級の古建築が残っていた・・・。
 <その結果、>この時代の建築技術は、・・・豊臣秀長・・・が支配す<していた>奈良の大工衆が独占<するところとなっ>ていたのである。・・・
 <一事が万事、>家康の天下掌握は、徳川家中の内的発展の論理のみで説明することはできない。
 高虎のような、朝廷人脈を含む豊臣政権の中枢人脈を徳川家につなぐ存在が必要不可欠だったのだ。・・・
 井伊氏は、譜代大名のなかでも30万石(実質35万石)という最大の石高を誇り、幕閣の中核として大老を務める家筋に成長し、他の譜代有力大名と異なり一度も転封をすることがなかった。
 これに対して、藤堂氏は外様大名ながら、家康の参謀役として関ケ原の戦い、さらには大阪の陣で抜群の軍功をあげて政権掌握に尽力し、伊勢と伊賀という東国と西国の接点で32万石の大藩を誕生させた。
 藤堂藩も、幕末まで転封することがなかった。・・・
 津城や城下町が早期に完成したのは、今治城下町からの城郭パーツ・武家屋敷・町屋・寺院の移築があったからである。
 管見の限り、当時の日本においてもっとも長距離の建物群移築である。
 ・・・<なお、>1627<年>に幕府隠密<(注44)>が作成した今治城下町の概念図<が残っている。>・・・

 (注44)「江戸時代初期(寛永初年頃)までは、伊賀忍者や甲賀忍者の一部が幕府に登用され隠密としての職務を掌った<。>・・・
 1635年・・・に徳川家光は御側・中根正盛に、正規の監察機構とは別に監察権限を与えて将軍直属の監察機構を設けさせ、正盛に幕藩体制社会全般の動向を把握させる事により家光への情報源とした。中根正盛配下の与力22名は国目付として諸国監察を任とし、主に諜報活動に従事した。正盛は、これらの与力を通して全国(各藩)津々浦々に隠密組織を保持し、情報網を張り巡らせ・・・た。・・・
 ・・・1637年・・・の島原の乱に出陣した討伐上使・松平信綱を近江国水口宿で出迎えた甲賀衆百余名は、かねてより存知の間柄にあった信綱に参陣への懇願をしたが、集団的な参陣は認められず10名のみが随行を許される事となる。信綱より10名に命ぜられる内容は、甲賀忍者が得意としたゲリラ戦ではなく、陣所から城までの距離、沼の深さ、塀の高さ、矢狭間の実態などの隠密活動であった。一揆軍の立てこもった原城内を探索したり兵糧を盗み取るなど活躍したものの、落とし穴に嵌って敵から石打にあい半死半生で逃げ出した事もあった。結局、彼ら10名は奮闘も空しく軍功を認めらる事なく、戦後に仕官する事は叶わなかった。個人的な諜報能力の高い者のみが、幕府や諸藩に取り立てられる時代になった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A0%E5%AF%86
 御庭番については、コラム#5768参照。

⇒「『忍者研究 第1号「論文 / 伊賀者・甲賀者考 (三 . 公儀隠密の時代 pp.22~26.)」』 国際忍者学会、2018年。」(上掲)という論文がある藤田が、その忍者学者としての片鱗を覗かせていますね。(太田)

 津は・・・繫栄し、人口も江戸時代を通じて2万人を維持し、明治22年(1889)には名古屋に先駆けて市制を敷いた。
 <この津は、>松坂と同様に伊勢商人<(注45)>の一大拠点として発展したのであるが、その基礎は高虎が普請したものだった。・・・

 (注45)「伊勢商人は、大坂商人、近江商人と並ぶ日本三大商人の1つである。江戸時代の伊勢国出身の商人で、安土桃山時代の16世紀後半から、本所となる伊勢以外にも江戸、大阪、京都などいわゆる三都に出店し日本全国に商売のネットワークを広げていったと言われている。・・・
 伊勢商人として、最も代表的な存在は江戸に呉服店越後屋を出店し三井の基礎を作った三井高利である。・・・
 伊勢商人は、元々、戦国時代中期から日本に流入してきた木綿を全国に出歩いて行って売りさばいていた存在であった(一例として、本居宣長の実家・小津家がある)。当時の木綿は高級生地であったため、これらから得た利益が彼らを豪商と呼ばれる存在へと高めていった。木綿・呉服のほか、材木・紙・酒を扱った伊勢商人がおり、金融業・両替商となる者もいた。
 伊勢おしろいも主な取引品目の一つである。・・・
 伊勢商人のキャラクターとしては彼らの商売はかなり手堅かったことから「近江泥棒、伊勢乞食」と言う言葉が残されている(近江商人はがめつく、伊勢商人は、貧乏な乞食のように、出納にうるさいと言う意味。)。また伊勢商人独自の情報ネットワークが指摘されており、特に伊勢参りに向かう人々が安濃津や松阪を経由していく事から、彼<ら>から諸国の情報を手に入れられたことが伊勢商人の発展につながっていると見られている<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E5%95%86%E4%BA%BA

⇒伊勢商人、と、近江商人就中湖東商人、の江戸時代における発展
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%95%86%E4%BA%BA ←近江商人
は、それぞれ、藤堂藩、と、彦根藩、の経済政策、と、両藩が、徳川幕府の重鎮両藩として、江戸、京都、そして大坂、に持っていたネットワーク、の賜物ではないでしょうか。(太田)

 江戸時代前期、江戸は政権都市として成長著しかったが、京都には朝廷があり、伝統文化を担っていた。
 また大坂は経済の中心として「天下の台所」へと発展していた。
 三都は、それぞれが首都機能を分有していたのである。
 <津等の>地域のコンパクトシティは、常にこれらと接触しつつ成長していた。・・・」(109、112、129、133、146)

(続く)