太田述正コラム#12407(2021.11.24)
<三島由紀夫『文化防衛論』を読む(その9)>(2022.2.16公開)

 まず、「シナの文物を受け入れるには朝廷の力によらねばならなかった」は違うのではないでしょうか。
 例えば、仏教だけをとっても、「古代の日本には、古くから多くの渡来人(帰化人)が連綿と渡来してきており、その多くは朝鮮半島の人間であっ<て、>彼らは日本への定住にあたり氏族としてグループ化し、氏族内の私的な信仰として仏教をもたらし、信奉する者も<おり、>彼らの手により公伝以前から、すでに仏像や仏典はもたらされていたようである<ところ、>522年に来朝したとされる司馬達等(止利仏師の祖父)はその例で、すでに大和国高市郡において本尊を安置し、「大唐の神」を礼拝していたと『扶桑略記』にある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%85%AC%E4%BC%9D
のですからね。
 また、「武力を用いられることの無い皇室」についても、「391年 倭国、海を渡り百済・新羅を攻める・・・404年 倭国、高句麗と戦い敗れる・・・527年 筑紫の国造、磐井の反乱・・・663年 日本軍、白村江で唐・新羅軍に敗れる・・・672年 壬申の乱」
https://www.haniwakan.com/tenji/nenpyou.html
といった具合に、武家の時代以前の日本に関して言えば、対外戦争や内戦が、少なくとも1世紀に1回くらいは起こっており、当然、その時々の天皇がそれぞれに関与していて、壬申の乱に至っては、時の天皇とその次の天皇が、それぞれ軍勢を率いて指揮官として戦っている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E7%94%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1
のですからね。
 これだけでも、「政治的手腕をふるい軍事的功業を立てられた天皇は無い」の後半は間違いですし、前半については、戦後すぐの頃にだって、天皇家が主導した律令制の導入くらいは知られていたわけであり、律令制の導入の意義を全面否定するつもりならともかく、歴代天皇を不当に貶めること甚だしい言い様である、と断じるべきでしょう。
 「歴代の天皇が殆ど例外なく学問と文藝とを好まれ・・・、それが皇室の伝統となっていた<点は、>世界のどの君主の家にも類の無いことである。」に関しては、津田が例外的に正しいことを言っています。
 もとより、イギリス王室について言えば、初代・・但しアングロサクソン朝・・のアルフレッド大王は、「ウェールズの学僧アッサーをはじめとし、マーシア出身のプレイムンド、ウェルフェルスなどを招聘し、荒廃した<イギリス>の学問の復興に当たらせた。ラテン語の文献を翻訳するなど学芸振興にも力を注ぎ、自らもラテン古典の英訳に携わ<り、>アルフレッドが訳するよう指示したと言われる書物が聖グレゴリウス『対話』『司牧者の心得』、オロシウス『異教徒を駁する歴史』、ベーダ『英国民教会史』、ボエティウス『哲学の慰め』、聖アウグスティヌス『独白』『詩篇』であ<って、>そのうち『司牧者の心得』の序文は原典にはなく、アルフレッド作であると言われ<、>・・・教育に関しても・・・前述の学者・学僧などの協力を得て宮廷学校を設立し、自身の子を筆頭に貴族の子などに教育を施し<、更に、>・・・アングロサクソン年代記の作成を指示した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E5%A4%A7%E7%8E%8B
ところですし、プロイセン王室について言えば、第3代プロイセン王のフリードリヒ2世(大王)は、「即位後ただちに・・・啓蒙主義的な改革を活発に始め、拷問の廃止、貧民への種籾貸与、宗教寛容令、オペラ劇場の建設、検閲の廃止などが実行された。フランス語とドイツ語の2種類の新聞が発刊され、先王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世のもとで廃止同然になっていたアカデミーも復興し、オイラーをはじめ著名な学者たちをベルリンに集めたため、ベルリンには自由な空気が満ち「北方のアテネ」と称されるようになった<ところ、>・・・1735年(23歳)から1756年(44歳)にかけて、自分の楽しみのためのフルート曲を作曲してい<て、>彼の作曲数は多く、フルート・ソナタだけをとっても実に121曲に及<び、>その作品として『フルートのための通奏低音付きソナタ』『フルート協奏曲』などがいまに伝わっており、比較的演奏機会のある曲に『フルート・ソナタ第111番ニ長調』があ<り、>・・・七年戦争中にプロイセン陸軍が行軍中や戦闘中に演奏していた『ホーエンフリートベルク行進曲』はフリードリヒが作曲したと言われてい<て、>・・・王の余生は、忙しい政務の中で時間を作っては文通やフルート演奏・著述を楽しむ日々で、このころ『七年戦争史』(もとは『我が時代の歴史』とも)を著<すとともに、>1780年の『ドイツ文学論』でドイツ文学と統一ドイツ語について論じた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%922%E4%B8%96_(%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%83%B3%E7%8E%8B)
という恐るべき文化人でした。
 但し、彼らは例外であって、だからこそ、どちらも「大王」と言われているのです。
 日本の歴代天皇は、「政治の局に当らず煩雑な政務に累せられなかった」のではなく、「江戸時代の前、中期には政治の局にすら当たらず、全般的にも比較的煩雑な政務に累せられなかった」のに対し、イギリスやプロイセン(後にはドイツ帝国)の歴代君主は、対内外戦争が常態の環境下にあって、常に「煩雑な政務に累せられた」ため、アルフレッドやフリードリッヒのような傑出した天才を除いて、「学問と文藝」に耽り、通暁する時間を捻出すべく政務を短時間でこなす能力も、また、学問と文藝に係る能力自体も、どちらも不足していたからでしょう。

(続く)