太田述正コラム#12413(2021.11.27)
<三島由紀夫『文化防衛論』を読む(その12)>(2022.2.19公開)

 「・・・われわれは、「菊と刀」をのこりなく内包する詩形としては、和歌以外のものを持たない。

⇒冗談も休み休み言って欲しいと三島を叱りたくなります。
 「『新古今和歌集』の序文にあるように、和歌は「世の中を治め、民衆に平安をもたらすための道」としての政治的役割を与えられ・・・宮廷世界の占有物ではなく、幕府を始め、中央や地方の武士・僧侶・有力農民層にも広く浸透し、そこに形成された人々のネットワークを通じて中央と地方の政治的・経済的な関係を作り出すという役割も果た<すようになった>」
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/132/witness.html
ことから、和歌が「刀」的な、ポリティコミリタリーや軍事上の機能を果たすことがあったことは否定しませんが、「10世紀後半の《古今和歌六帖》<が、和>歌を天象,地儀,人事,草虫木鳥の25項目,516題に分類<した>」
https://kotobank.jp/word/%E9%A1%9E%E9%A1%8C%E9%9B%86-1216514
、という断片的情報だけからでも、和歌の題材としてポリティコミリタリーや軍事的なものは馴染まず、和歌が「菊」的なものであったことが感知でき、そのことは、和歌から生まれ、「身近な日常<を>題材<とした>・・・俳諧」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E8%8A%AD%E8%95%89
すなわち、和歌に比べてより世俗的であったところの、俳句(俳諧)、において、「戦争は季節には無関係のものなので、俳句におけるメインの題材になることはあまりな<く、>日清戦争での正岡子規の「戦ひの後にすくなき燕かな」、内藤鳴雪の「此頃は女畑打ついくさかな」や日露戦争での与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」(七五調八行五連の長詩)などが明治時代<以降の俳句において、>目につくぐらい」
https://japanknowledge.com/articles/shiorigusa/28.html
であることからも推認できるところですからね。(太田)

 かつて物語が歌の詞書から発展して生れたように、歌は日本文学の元素のごときものであり、爾余のジャンルはその敷衍であって、ひびき合う言語の影像の聯想作用にもとづく流動的構成は、今にいたるも日本文学の、ほとんど無意識の普遍的手法をなしている。

⇒「物語文学<は、>・・・平安〜鎌倉期に盛行した文学形態<であるところ、>口承文芸を母体とする《竹取物語》に始まるとされ,この作り物語の流れは伝奇的なものから次第に写実性を獲得した。一方,和歌の詞書から発展して《伊勢物語》を代表とする歌物語が成立。さらに作者の経験に即した,《蜻蛉日記》のような日記文学の系譜があり,これも物語の一種と呼ぶことができる。これらを発展的・統一的にうけついで《源氏物語》が出現する」
https://kotobank.jp/word/%E7%89%A9%E8%AA%9E%E6%96%87%E5%AD%A6-874205
のであり、和歌の詞書は、物語文学の淵源の一つに過ぎないのですから、三島のここの記述も極めて不正確です。(太田)

 宮廷詩の「みやび」と、民衆詩の「みやびのまねび」との間にはさまれて、あらゆる日本近代文化は、その細い根無し草の営為をつづけてきたのであった。
 伝統との断絶は一見月並風なみやびとの断絶に他ならず、しかも日本の近代は、「幽玄」「花」「わび」「さび」のような、時代を真に表象する美的原理を何一つ生まなかった。

⇒「日本の近代」に、「近世」とされることが多い江戸時代は含まれないと思われますが、いずれにせよ、江戸時代の美的原理である、上方文学の「軽み」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8A%E6%96%B9%E6%96%87%E5%AD%A6-46635#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8
や、江戸文学の「渋み」、「粋」
https://kotobank.jp/word/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%96%87%E5%AD%A6-36943
に三島が言及しなかったのは、彼の個人的な好みはさておき、私には理解しがたいところです。
 また、江戸文学の主たる担い手は「民衆」でしたが、問われれば、三島は、「渋み」も「粋」も「みやびのまねび」であると答えるつもりだったのですかねえ。
 そうだとすれば、まことに彼らに失礼だと思いますが・・。(太田)
 
 天皇という絶対的媒体なしには、詩と政治とは、完全な対立状態に陥るか、政治による詩的領土の併呑に終るかしかなかった。」(57~58)

⇒ここは、明治以降の・・江戸時代以降の?・・諸天皇に対する批判なのでしょうか?
 ハテ。(太田)

(続く)