太田述正コラム#12421(2021.12.1)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その28)>(2022.2.23公開)

 「・・・しかし、<1628>年6月に高仁親王が夭折してしまった。・・・
 さらに同年9月に和子の生んだ2人目の皇子も、翌月に死去する。
 結局、後水尾天皇の意志が固かったため、予定通り<1629>年11月に譲位がおこなわれ、<1630>年9月に和子の生んだ皇女が明正天皇(称徳天皇<(注49)>以来859年ぶりの女帝)として即位したのであった。

 (注49)孝謙/称徳天皇(718~770年。天皇:749~758年、764~770年)は、「道鏡を寵愛し、高い地位を与え続け、最終的に天皇の地位にしようとした道鏡事件を起こしている。そのため、宮中は中継ぎであっても女性天皇を立てることを忌避するようになった。・・・
 <なお、>当時<まで>の<女>帝は全て独身(未婚か未亡人)であり、<彼女>が即位してもその次の皇位継承の見通しが立たず、彼女に代わる天皇を求める動きが彼女の崩御後まで続くことになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E8%AC%99%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒後に応神天皇となる子がいながら、自分が死ぬまでその子を皇位に就けることなく、「摂政」であり続けた「神功皇后<は、>・・・明治時代までは一部史書(『常陸国風土記』『扶桑略記』『神皇正統記』)で第15代天皇、初の女帝(女性天皇)とされていたが、大正15(1926)年の皇統譜令(大正15年皇室令第6号)に基づく皇統譜より正式に歴代天皇から外された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%8A%9F%E7%9A%87%E5%90%8E
という「史実」があるわけですが、にもかかわらず、どうして、日本では、欧州におけるような、「通常」の女皇/女王が出現しなかったのか、について、機会あらば、推古天皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A8%E5%8F%A4%E5%A4%A9%E7%9A%87
のケース等を振り返りつつ、追究してみたいものです。(太田)

 秀忠にとっては、外戚となって男系天皇が誕生せねば、真なる公武合体政権とはいえなかったのであろう。
 なぜなら、女性天皇は独身で通すことから、徳川の血を引き継ぐ後継者は生まれないのである。

⇒「注49」にも出てきた、「女性天皇は独身で通す」という慣例がいついかなる理由で成立したのか、についても、上記追究の中で、解明してみたいところです。(太田)

 しかも後水尾天皇が院政を敷いたことから、幕府が朝政に介入することには限界があった。
 秀忠は、家康以来の「大坂幕府」構想を実現することなく<1632>年1月に死去した。
 家康以来の政権構想は、挫折したのである。・・・

⇒挫折?
 「挫折」したくなければ、次々に、徳川本家から天皇家に女性・・養子も活用すれば、いくらでも候補者の確保はできたでしょう・・を送り込み続ければよかったはずです。
 にもかかわらず、そうしなかったのは、もはや「朝政に介入する」必要がないほど、天皇家を無力化できた、と、家光(~1651年)や家綱(1641~1680年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%85%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E7%B6%B1
が判断した、ということではないでしょうか。(太田)

 <結局、>明正院の次代の後光明院以降、天皇が将軍と血縁関係をもたないことが基本となった。
 その意味で、後水尾院は近世朝廷制度の基礎を固めた人物と評価することができよう。・・・

⇒悪い意味でなら、藤田の言う通りです。(太田)

 <さて、蒲生>忠知<(注50)>の実兄忠郷の正室は、高虎の息女亀姫だった。

 (注50)1604~1634年。「浅野長晟が・・・継父にあた<り、>・・・異父弟に浅野光晟がいる。・・・1627年・・・、兄の会津藩主・忠郷が嗣子なくして早世したため、本来ならば蒲生氏は断絶するところ、母・正清院が徳川家康の娘であることから、江戸幕府の計らいにより忠知の家督相続が許された。ただし、会津60万石から伊予松山24万石に減移封されている。・・・
 幕府では蒲生氏郷の名声や忠知が家康の外孫であることを考慮して、将来的には婿を迎えて蒲生氏の再興を認めることも検討されていたと伝えられている・・・が、その娘も・・・3歳で急死したため蒲生氏は断絶した。・・・松平姓を与えられ<てい>る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%9F%E5%BF%A0%E7%9F%A5

 したがって松山の忠知と<藤堂高虎の養子である>今治の<藤堂>高吉<(前出)>は義理の兄弟といってもよく、広島の<浅野>光晟<(注51)>も加えると三人は義理の兄弟関係にあったといってよい。」(184、188~189) 

 (注51)みつあきら(1617~1693年)。「家康の外孫<で、>・・・広島藩・・・初代藩主・浅野長晟(当時は紀州藩主)の次男として和歌山で生まれ・・・1632年)10月29日、父の死去により跡を継ぐ。・・・松平姓を許され<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E5%85%89%E6%99%9F

⇒家康も、秀吉同様、身内事大主義者であったわけです。
 但し、家康と秀吉の共通点はそれくらいでしょうね。(太田)

(続く)