太田述正コラム#12427(2021.12.4)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その31)>(2022.2.26公開)

 「・・・将軍と親しく接し、幕閣にも顔の利く高虎は、諸藩に人材を斡旋した。
 その代表的人物として、幕閣本多正信の次男政重<(注58)>(まさしげ)をあげることにしよう。

 (注58)1580~1647年。「出奔後は大谷吉継の家臣となり、その後、宇喜多秀家の家臣となって2万石を与えられ正木左兵衛と称した。
 ・・・1600年・・・の関ヶ原の戦いでは宇喜多軍の一翼を担って西軍側として奮戦したが、西軍が敗れたために逃走、近江堅田へ隠棲した。西軍方ではあったが臣下の立場でもあり、正信の子であったためともされるが、ともあれ罪には問われなかった。その後、福島正則に仕えたがすぐに辞去し、次に前田利長に3万石で召し抱えられた。しかし・・・1603年・・・、旧主・秀家が家康に引き渡されたことを知ると、宇喜多家縁戚の前田家を離れた。
 この頃、父・正信への接近を図っていた上杉景勝の重臣・直江兼続は、・・・1604年・・・政重を婿養子に迎え<る。>・・・
 1611年・・・に上杉家の下から離れ武蔵国岩槻に帰った。・・・1612年・・・に藤堂高虎の取りなしで前田家に帰参して3万石を拝領し、家老としてまだ年若い前田利常(利長の弟)の補佐にあたった。・・・
 その後は加賀藩によく仕え、・・・1613年・・・、前田家が江戸幕府から越中国の返上を迫られるとこれを撤回させ、その功により2万石を加増され5万石となった。加賀藩が幕府に反逆の疑いをかけられた際には、江戸に赴いて懸命に釈明することで懲罰を回避し、この功績を賞されてさらに2万石を加増された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E6%94%BF%E9%87%8D

 政重は、徳川秀忠の乳母大姥局(おおうばのつぼね)の息子川村荘八(そうはち)(岡部荘八)を殺害して逐電し、その後は宇喜多氏・福島氏・前田氏などに仕え、さらに上杉景勝の重臣直江兼続の養子とな<り、更に、>・・・前田氏に3万石で再任官した<。>・・・
 <このように、>一貫して、徳川氏にとって警戒するべき外様大名たちを渡り歩いているのだが、・・・<最後の仕官の際には、>高虎がその仲介役を務めている・・・。・・・
 <また、>高虎は幕府から幼主生駒高俊<(注59)>の後見を命ぜられ、讃岐高松藩の藩政立て直しにも尽力した。

 (注59)1611~1659年。「母<が>藤堂高虎の養女<。>・・・1621年・・・、父・正俊の死去により、家督を相続した。幼少のため、外祖父・藤堂高虎の後見を受けることになった。・・・成年した高俊は、政務を放り出して美少年たちを集めて遊興にもっぱら耽ったこともあって、家臣団の間で藩の主導権をめぐって内紛が起こった(生駒騒動)。・・・1637年・・・、生駒帯刀らが土井利勝や藤堂高次に前野助左衛門らの不正を訴えた。これに対し、前野らは徒党を組んで退去した。・・・1639年・・・、幕府は騒動の詮議を始める。・・・1640年・・・、幕府は藩主・高俊の責任を追及し、領地を没収し、出羽国由利郡に流罪とした。ただし、由利郡矢島(現在の秋田県由利本荘市矢島町と鳥海町の部分)で1万石を堪忍料として与え、高俊は矢島村に陣屋を構えた。なお、生駒派の中心人物は大名にお預け、前野派の中心人物は死罪となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%A7%92%E9%AB%98%E4%BF%8A

 そのためには、重臣西島八兵衛を派遣して満濃池の修復をはじめとする大規模な開発事業に取り組ませたばかりでなく、自らが生駒氏重臣層に様々な命令を下し<、>・・・そのなかで・・・繰り返し藩領の百姓が安心して耕作ができるようにすることが基本であることを諭している。・・・
 高松藩は、高虎没後も二代藩主高次<(注60)>が引き続き藩政を後見したが<、結局、同藩は>・・・改易となった。・・・

 (注60)「高虎にはなかなか実子ができなかったため、丹羽長秀の子を養嗣子・高吉として迎えていた。高虎が46歳のとき、ようやく実子である高次が生まれ、・・・1630年・・・、高虎が病死すると高次がその跡を継ぐこととなった。なお、高吉は・・・1632年・・・に今治から伊勢に転封されたが、・・・1636年・・・に高次の命令で伊賀名張へ転封、名張藤堂家を興した。高次は自分の地位を脅かす存在として高吉を危険視し、享保年間まで名張藤堂家と本家との対立は続くこととなった。
 ・・・1632年・・・の江戸城二の丸、・・・1639年・・・の江戸城本丸消失後の復興、・・・1652年・・・の日光の大猷院霊廟(徳川家光の霊廟)などの数多くの石垣普請を行った。ところが津藩はこれらの石垣普請の負担により財政が極度に悪化し、高次は年貢増収による財政再建を図って新田開発を積極的に奨励するなどの改革に努めた。しかしなおも江戸幕府の普請費用を積極的に負担したため、財政はさらに悪化の一途をたどっていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%A0%82%E9%AB%98%E6%AC%A1

 これは、中世的な意識を脱することのできない重臣層に、治者としての思想を植え付けることのむずかしさ、すなわち「藩」づくりがいかに困難なものであったのかを示す典型例といってよい。」(194~196)

⇒こじつけです。
 どんな時代にも、機能しない組織やダメ人間はいるってだけの話でしょう。
 もう一つ顧慮すべきは、「注60」から窺えるように、高次は、その父の高虎より相当オツる人物であり、そもそも、生駒騒動がこじれて大事になった元凶が高次であった可能性すらあります。
 いずれにせよ、生駒騒動なるものを記録として残したのは高次であったとも考えられ、史実が歪められているかもしれないことに注意が必要でしょう。(太田)

(続く)