太田述正コラム#12431(2021.12.6)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その33)>(2022.2.28公開)

 「・・・家康そして秀忠のめざした公武合体政権は、ついに日の目をみることがなかった。
 「大坂幕府が実現していたならば、上方の朝廷や寺社のみならず、西国の外様諸大名に対する圧力は格段に強化されたに違いないから、後の雄藩への成長などなかっただろう。
 やはり、幕府は大きな挫折を経験したのである。

⇒「公武合体政権」ができようとできまいと、江戸から大坂に幕府を移転することはできたはずであり、そうしなかったのは、その必要がなくなった、というか、そもそもそんな必要などなかった、からでしょう。(太田)

 ・・・1634<年>、家光は30万の大軍を率いて上洛し、後水尾天皇の院政を認めた。
 後水尾天皇による紫衣(しえ)着用の勅許を無効にすることで勃発した紫衣事件以来冷え込んでいた公武関係を再建し、その安定化に努めた。・・・

⇒紫衣事件については、次回東京オフ会「講演」原稿に譲ります。(太田)

 <この時、>閏7月26日に大阪を訪れて、地子免許すなわち租税免除による城下町繁栄策を打ち出して以降、商工業者の本格的な大坂集住が促進されたのである。

⇒そう藤田は書いていますが、「豊臣政権が全国支配を完成させた頃から政治の中心であり有力商人たちが在住していた大坂・堺に諸大名の蔵屋敷<(注63)>が立てられ始めた。やがて江戸幕府が成立すると、政治の中心は江戸に移転したものの、商業の中心はそのまま大坂に留まったために以後も諸藩の蔵屋敷は大坂に集中した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%B5%E5%B1%8B%E6%95%B7
というのが通説であると承知しているところ、藤田が新説を述べるのであれば、家光上洛を契機とする「本格的な大坂集住・・・促進」の典拠付き根拠をここに付すべきでしょう。(太田)

 (注63)「大坂には延宝年間(1670年代)には80、天保年間(1840年代)には125の藩の蔵屋敷があったとされ、小藩や大名以外のものも含めると600近くはあったのではないかという説もある。
 なお、商業を賎しむ儒教的観念の影響を受けて、ほとんどの大名が自己所有の蔵屋敷であっても有力商人を表向きの名義人(名代(なだい/みょうだい))としてそこから借り受けている事としており、大坂では安濃津藩・伊予松山藩の2藩のみが自己所有の蔵屋敷の存在を公然としていただけだったとされている。」(上掲)
 
 これによって、諸大名の蔵屋敷が中之島<(注64)>や堂島<(注65)>などの川縁に並び、米穀をはじめとする全国の物産が大坂に集中し、「天下の台所」として発展したのであった。・・・

 (注64)「中之島の開発は大坂の陣後、大坂屈指の豪商、淀屋(淀屋常安)によって1615年(元和元年)に始まった。淀川(現:旧淀川)本流の中洲であることに加えて、大阪湾から遡上する二大航路の安治川と木津川の分岐点でもある中之島には諸藩の蔵屋敷が集中し、全国各地の物資が集まる「天下の台所」大坂の中枢を担った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%B9%8B%E5%B3%B6_(%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C)
 (注65)「淀川本流であった堂島川の北に形成された中州で、北を西流する分流を曽根崎川(蜆川)という。地名は薬師堂があったことから「堂島」になったと言われる。1685年・・・に河村瑞賢によって堂島川・曽根崎川の改修が開始されると、それに伴って堂島に新地が開発されて、1688年・・・に堂島新地が誕生した。
 江戸幕府は開発後の振興策として茶屋の設営を許可、大坂市街(大坂三郷)の北に位置したため、北の遊里・北の色里などと呼ばれる繁華街になった。
 1697年・・・、江戸時代の代表的な豪商である淀屋の自宅前、淀屋橋南詰の路上で開かれていた米市が堂島(大江橋北詰)に移され、次第に米取引の場「堂島米市場」へと変貌して行った。1708年・・・には曽根崎川の北岸に曾根崎新地が誕生し、1730年・・・に堂島米会所が開設される頃には、堂島新地のほとんどの遊里は曾根崎新地へ移転していた。
 堂島米会所では世界初の近代的な商品先物取引が行われていた。全国から堂島に廻送された年貢米は年間100万石とも150万石とも伝えられ、堂島の西半にはそれらを保管する倉庫と屋敷を兼ねた諸藩の蔵屋敷が建ち並び、その数は中之島に次ぐものとなっていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%82%E5%B3%B6

⇒家光上洛の1634年より、中之島発展の契機はずっと前の1615年ですし、堂島発展の契機はずっと後の1688年である、ことだけからでも、藤田説には疑問符が付くわけです。(太田)

 武家によって徹底的に抑圧された朝廷だったが、幕府との距離的な懸隔、それに加えて家光以降の歴代将軍が上洛を企てなかったことが、その権威と正当性を脈々と生き延びさせることになった。
 それが、幕末の動乱の前提となったのである。・・・」(202~203)

⇒歴代将軍はその必要がなくなったので上洛をしなくなっただけでしょうが・・。
 ここまで来ると、藤田が、フィクションを現実であるかの如く語る浪曲師に思えてきました。
 そんな藤谷に、江戸時代史を総括されては、いやそれどころか、こんな風に独りよがりに歪曲した形で総括されては、我々はたまったものではありません。(太田)

(続く)