太田述正コラム#12435(2021.12.8)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その35)>(2022.3.2公開)

 「この背景としては、東アジアレベルの歴史的な大変動があった。
 その第一が、東アジア規模で広がる異常気象によって寛永大飢饉<(注67)>が発生し、百姓の田畑耕作は大打撃を受ける。

 (注67)「江戸時代初期の1640年から1643年にかけて起こった飢饉。・・・
 <この>大飢饉の背景としては、1630年代から1640年代における東アジア規模での異常気象のほか、江戸時代初期の武士階級の困窮、参勤交代や手伝普請、<家光の1623年の秀忠と>の上洛や<家光の累次の>日光社参[、九州を中心とした大量の兵粮と軍役の徴発・動員により,農村の疲弊状況をさらに深刻化させた<ところの、>・・・37年に起こった島原の乱]などのように、武断政治を進めるための幕府や藩の多額の出費、年貢米を換金する市場の不備などが、様々な要因があげられる。・・・
 [40年には,西日本を中心として全国的に牛疫病が流行し,九州では大量の牛死が発生して,農耕に甚大な影響を与えた。]
 1641年・・・に入ると、初夏には畿内、中国、四国地方でも日照りによる旱魃が起こったのに対し、秋には大雨となり、北陸では長雨、冷風などによる被害が出た。その他、大雨、洪水、旱魃、霜、虫害が発生するなど全国的な異常気象となった。東日本では太平洋側より日本海側の被害が大きく、これは後の天保の大飢饉に似た様相であるという。当時江戸幕府では寛永通宝を発行して貨幣の統一を図っていたが、過剰鋳造に市場への流出に加えて不作による物価高騰で銭の価値が急落し、同年12月には鋳造の全面停止に追い込まれ、同時に公定相場での寛永通宝の買い上げや東西間の交通の維持のために東海道筋などの宿場町の支援に乗り出している。不作はさらに翌・・・1642年・・・も続き、百姓の逃散や身売など飢饉の影響が顕在化しはじめると、幕府は対策に着手した。同年5月、将軍徳川家光は諸大名に対し、領地へおもむいて飢饉対策をするように指示し、翌6月には諸国に対して、倹約のほか米作離れを防ぐために煙草の作付禁止や身売りの禁止、酒造統制(新規参入及び在地の酒造禁止及び都市並びに街道筋での半減)、雑穀を用いるうどん・切麦・そうめん・饅頭・南蛮菓子・そばきりの製造販売禁止、御救小屋の設置など、具体的な飢饉対策を指示する触を出した。これは、キリシタン禁制と並び、幕府が全国の領民に対して直接下した法令として着目されている。またこうした政策は後の江戸幕府における飢饉対策の基本方針とされるようになる。なおこのとき、譜代大名を飢饉対策のために、領国に帰国させたことがきっかけとなって、譜代大名にも参勤交代が課せられるようになった。
 <1642>年末から翌・・・1643年・・・にかけて餓死者は増大し、江戸をはじめ三都への人口流動が発生。<将軍家光(~1651年)の下の>幕府や諸藩は飢人改を行い、身元が判別したものは各藩の代官に引渡した。また米不足や米価高騰に対応するため、大名の扶持米を江戸へ廻送させた。3月には田畑永代売買禁止令を出した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%B0%B8%E3%81%AE%E5%A4%A7%E9%A3%A2%E9%A5%89
 「飢饉は一概に政災・人災とはいえないが、岡山藩主池田光政は、地方(じかた)支配の給人層が撫民(ぶみん)という武士の徳義を忘れて、このような惨状のなかで津留(つどめ)・穀留(こくどめ)の障壁をいよいよ高くして米価の高騰をねらう逸脱を指摘している。いわば構造的政災を指摘したものといえよう。同時に、いわゆる名君の現状認識の深さをうかがわせるものであろう。この飢饉を契機として、小農の維持・創出という幕府の農政の基調も深められていった。・・・
 下野国(栃木県)黒羽藩執政鈴木武助(ぶすけ)は、その著『農諭』(1805)に、彼の考証による慶長(1596~1615)以来の四大飢饉をあげ、その第一に寛永の飢饉を置き、以下年代順に延宝(えんぽう)、享保(きょうほう)、天明の飢饉を数えている。この考証から、飢饉は100年といわず、「近ければ三四十年、遠くとも五六十年の内に来るとおもうべし」との見解を示している。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AF%9B%E6%B0%B8%E3%81%AE%E9%A3%A2%E9%A5%89-1156714 ([]内も)

 それまでの武断支配では対処できず、幕府・藩ともに様々な農村への飢饉対策が必要とされたが、それには当然のこと、行政能力の向上が求められた。
 したがって、幕府・藩ともに、内政の深化のために官僚制度を充実させねばならなかった。」(205)

⇒「日本ではとくに17世紀中ごろ,・・・4代将軍徳川家綱<が>・・・襲職<した>1651年・・・,すでに関ケ原の戦いから50年が経過し,世代の交代で戦国の遺風も薄れ,武士も文官的要素が重んじられるなど時代の転換期を迎え<ており、>江戸幕藩政治が武断から文治へ転換したというのが通説的見解である。その指標としては朝幕関係の融和,大名の改易の減少,法令・制度の整備,儀礼の尊重,人民教化の重視,学芸の振興,政治における儒教の影響の進展などがあげられている。」
https://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E6%B2%BB%E6%94%BF%E6%B2%BB-623430
とされているところ、「寛永大飢饉<によって>・・・内政の深化のために官僚制度を充実させねばならなかった」(上出)ことを、文治政治への転換の一原因として挙げているのは藤田だけではないでしょうか。
 少なくとも、何らかの典拠付き根拠を藤田には示して欲しかったですね。(太田)

(続く)