太田述正コラム#12441(2021.12.11)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その38)>(2022.3.5公開)

 「 豊臣政権が実現した統一国家の綻びは、秀吉の死に伴う対外出兵の敗退から始まった。

⇒私が朝鮮出兵は敗退で終わったわけではないと考えていることは、ご承知の通りですが、このくだりにはそれ以前の問題があり、そもそも、文章としておかしいですよね。
 「死に伴う」なら「撤退」でしょう。(太田)

 秀吉は、天下統一戦をおこないながら、国分の後に国主大名以下の諸大名に対して領知宛行状と知行目録をセットで与えていた。
 戦争を通じて主従性を全国に拡大したのであった。
 それができなかった徳川歴代将軍は、四代かかって全大名との間にようやく統一的な主従制を構築するに至った。
 これによって、制度的に藩の成立が達成されたのである。・・・
 かつて学界や歴史教科書では、秀吉の政治スローガン「惣無事」が、そのまま徳川の平和すなわち「泰平」の世に直結し移行するという論理が通説化していた。
 軍事国家の段階と、軍事から行政が分離して官僚組織によって国家が担われてゆく段階との、質的な違いを意識すべきではなかろうか。

⇒あのー、藤田さん、日本が軍事国家じゃなくなった途端に、征夷大将軍がその最高権力者、という体制・・幕府制・・の存在根拠が消滅してしまうんですが・・。
 秀吉は、豊臣家を公家として発足させたので、徳川家によって最高権力を簒奪されなかったならば、やがて、「軍事から行政が分離して」、日本が、天皇を名目上の最高権力者とし、豊臣家を事実上の最高権力者とする「官僚組織によって国家が担われて」いく運びになった可能性があったけれど、徳川家は、武家である以上、そのような可能性を内在させていなかったため、日本は軍事国家であり続けることとなり、だからこそ、黒船が来航した時に、軍事国家を標榜していながら適切な軍事的対処が全くできないことが露呈してしまった瞬間、徳川家の最高権力保持の正統性が失われ、大政奉還が不可避になったのですよ。(太田)

 天下統一から対外戦争までを支えた軍拡国家が前者で、満州における後金の台頭から大清帝国の誕生という東アジア世界秩序の新段階のもとで構築された幕藩国家が後者である。

⇒ヌルハチの漢人史知識に遺漏があり、かつての「後漢」等が他称であって自称は単に「漢」等であったというのに、「金」ではなく、「後金」と自称してしまったという愉快な話が、「注74」(後出)の講演録の中に出てきます。(太田)

 東アジア国家間の戦争がなくなった段階が、「泰平」の世だった。
 「惣無事」という国家統一のスローガンと同一レベルで、東アジア国際秩序につながる「泰平」を理解するべきではない。
 東アジア世界の統一に向けての動きが、日本においても国家の再編を迫ることになったのである。

⇒東アジア世界の「平和」の話が、いつの間にか、「統一に向けての動き」の話にすり替わっていますね。
 しかし、そもそも、清による、北東アジア大陸部の統一は、統一を目指してそれが達成されたのではなく、その時その時の必要に迫られ、運も常に味方して、結果的に達成されたものである、という、私としても首肯できる話が「注74」(後出)の講演録の中に出てくるところ、日本の場合は、信長、秀吉、の2人が次々に日本の統一を目指し、秀吉が達成し、家康が統一済みの日本を力づくで継承したのですから、事情が全く異なります。。(太田)

 この点に関連して、大清帝国の政治体制である八旗制度と幕藩体制との共通点を見出した杉山清彦<(注73)>氏の指摘<(注74)>は興味深い。」(216~217)

 (注73)1972年~。阪大文卒、同大院博士後期課程修了、同大助手、駒澤大文准教授、東大院総合文化研究科准教授。専門は東洋史。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E6%B8%85%E5%BD%A6
 (注74)杉山清彦「マンジュ(満洲)王朝としての大清帝国の国制とその歴史的位置──八旗制を中心に──」
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjexe7Y2Nv0AhUL62EKHS72Bk4QFnoECB4QAQ&url=https%3A%2F%2Fsenshu-u.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D4056%26item_no%3D1%26attribute_id%3D32%26file_no%3D1&usg=AOvVaw0_gO0ad3nO7m8DfpgtQR2Z

⇒八旗制度は、支那本体(漢人地域)に関しては、兵制に過ぎず、政治制度(統治制度=官制)ではなかった、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85
で終わりです。
 「八旗の将兵は旗人といって旗地と呼ばれる封地と農民をもち,保護された。」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AB%E6%97%97-114928
けれど、それは、清兵の給養は、例外的に、国庫によってではなく、特定の農民付封地からの収益で賄われた、というだけのことです。
 清の耕地のうち、封地となっていたのは、そのほんの一部である、と、言い換えましょうか。
 江戸時代の日本とはまるで違っていたわけです。
 つまり、「秀吉の政治スローガン「惣無事」が、そのまま徳川の平和すなわち「泰平」の世に直結し移行するという」かつての通説は、依然正しい、ということになります。(太田)

(続く)