太田述正コラム#12443(2021.12.12)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その39)>(2022.3.6公開)

 「杉山氏は、国際的な重商主義の牽引車となったのが日本とスペイン領南米で産出される銀<(注75)>だったこと、これらの商品と通貨を倭寇やヨーロッパ船、朱印船が運び、それらの利益を手にしようと世界的な競争が発生し、日本や中国も巻き込まれていったことに着目する。

 (注75)「日本においては飛鳥時代まで銀を産出せず、674年の対馬銀山の発見が始まりである。平安時代はほぼ対馬のみの産出であったが、戦国時代までには各地に銀山が開発された。石見銀山へ導入された灰吹法技術と、当時のユーラシア大陸経済が希求していた決済手段用の銀の需要が合致したことにより、日本の産銀量は16世紀半ばに激増した。
 16世紀後半から17世紀前半にかけての日本は東アジア随一の金、銀、銅の採掘地域であり、生糸などの貿易対価として<支那>への輸出も行っていた。・・・
 新大陸発見後は、ペルーやメキシコなどで大量採掘された銀がガレオン船の大船団によってスペイン本国へと運ばれ、そこから世界中に流れることになった。・・・
 16世紀を通じて金の産額には大して変化がなかったのに対し、銀は16世紀中頃よりポトシ鉱山や石見銀山を中心に著しく増大したため銀価格が暴落した。例えば日本および<支那>においては16世紀前半まで金銀比価は1:5 – 6前後であったが、17世紀以降は日本では1:10 – 13程度まで銀安となった。16世紀中頃の銀の増産の背景には、上記の新鉱脈の発見に加え、アマルガム法や灰吹法といった新しい精錬技術の導入があった。銀価値の暴落によりヨーロッパの物価は2- 3倍のインフレーションに陥った(価格革命)。
 また、この銀の量の激増はフッガー家の没落をもたらしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80

⇒このくだりは、そういう言い方もできるかな、と思います。(太田)

 東アジア規模での戦国時代の背景をこのように理解したうえで、後金を建国したヌルハチの動きと日本の豊臣から徳川への政権交代期が重なり、海をはさんだ天下統一だったことに注目する。」(217~218)

⇒しかしながら、まず、このくだりの「戦国時代」という言葉にひっかかります。
 杉山のせいなのか藤田のせいなのか、二人のどちらにも問題があるのか、定かではありませんが、日本は戦国時代だったけれど、明には戦国時代的な時代などなかったのですからね。
 確かに、明では、15世紀に入ってからも、オイラト相手の土木の変(1449年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E6%9C%A8%E3%81%AE%E5%A4%89
そして同時期に鄧茂七が起こした反乱(注76)(1448年~)、また、寧王の乱(注77)(1519年)、後期倭寇の跳梁、庚戌の変(注78)(1550年)、哱拝の乱(注79)(1590年)、等が次々に生起しているけれど、その程度の話は、支那のどの王朝の「平時」にあってもつきものでした。

 (注76)とうもしち(Deng Mao-qi。?~1449年)は、「衆に推されて福建に反乱を起した。当時地方では貨幣経済が浸透し,商人 (不在地主) による大土地所有が発展していた。農民は高額の小作料を納めるほか,不在地主に代って租税,徭役をも事実上負担したので,茂七はそれらの減税を要求して数十万の農民を指揮し,地主,政府軍と戦った。彼は翌年敗死したが,余党はその後も江西,広東方面で長く抵抗した。この乱は佃戸 (でんこ。小作農) による純粋な農民反乱として注目される。」
https://kotobank.jp/word/%E9%84%A7%E8%8C%82%E4%B8%83-104256・・・
 (注77)「宗室である寧王朱宸濠が帝位を狙い挙兵した事件。・・・南昌で10万の兵をもって挙兵し、江西巡撫孫燧と江西按察副使許逵を殺害し、朝廷を指弾し、正徳の年号を改め、各地に檄を飛ばした。
 7月初め朱宸濠は南京を占領する計画を立て、水軍を率いて安慶に打って出た。しかし江西僉都御史の王陽明(王守仁)は乱の発生を聞き、諸郡に檄を飛ばし、7月20日に南昌を陥落させた。朱宸濠は南昌を救援するために引き返し、7月24日に黄家渡で戦闘になった。7月26日、王守仁は敵の連なった船に火を放ち、3万人余りの将兵を打ち取り、朱宸濠一族を捕らえた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%A7%E7%8E%8B%E3%81%AE%E4%B9%B1
 (注78)こうじゅつのへん。「モンゴルでは15世紀末から16世紀初頭にかけて、クビライの子孫を称するダヤン・ハーンの手で再統一が成し遂げられた。オルドスに封じられたその孫アルタン・ハーンは、16世紀前半、頻繁に明に侵入して略奪を行うようになり、朝貢や互市の要求も激しくなった。
 嘉靖29年(1550年)には長城を越えて直隷に侵入し、3昼夜に渡って北京を包囲、朝貢と互市を要求した。この事件を庚戌の変と呼ぶ。この際は、明朝に脅威を与えただけで包囲を解いて立ち去ったが、翌1551年に再び交易を求めた。この要求を受けて大同で馬市が設けられ、モンゴルが提供した馬と絹織物とが交換された。しかし、まもなく明朝との関係が悪化して馬市が閉鎖されたため、両勢力の抗争は激化することになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9A%E6%88%8C%E3%81%AE%E5%A4%89
 (注79)ボハイのらん。「寧夏鎮(現,寧夏回族自治区銀川市)で起きた反乱事件。・・・哱拝はモンゴル系の一部族の出身で,嘉靖年間(1522‐66)に逃れて明朝に来降し,その後数回の戦功によって1589年(万暦17)寧夏鎮の副総兵に任ぜられ,子の哱承恩がその職を継いだ。91年洮河(とうが)に出征があった際,哱拝父子は願い出て従軍したが,巡撫の党馨(とうけい)はこれをにくんで軍馬を支給しなかった<ことがきっかけとなって反乱を起こした。>」
https://kotobank.jp/word/%E5%93%B1%E6%8B%9D%E3%81%AE%E4%B9%B1-1206359

 そして、「価格革命」を淵源として社会が不安定化していっためいた話そのものについても、欧州や日本における「価格革命」が、当時の明や戦国時代末・安土桃山時代の日本の戦国時代(の戦乱度の増大)をもたらしたなどとは、(杉山の立論を具体的に調べる労を惜しんだのですが、)「新大陸などから大量の銀が流入し<フッガー家の>ヨーロッパ鉱山の経営が悪化した」ことが、フッガー家衰退の要因の一つとなったことは確かながら、それが欧州の政治にさほど大きな影響を及ぼしたわけではなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%83%E3%82%AC%E3%83%BC%E5%AE%B6
こと一つとっても、首を傾げざるをえません。(太田)。

(続く)