太田述正コラム#1508(2006.11.15)
<渡辺京二「逝きし世の面影」を読んで(その4)>

 (3)渡辺の言行不一致について
  ア 始めに
 しかし、何と言っても私が一番違和感を覚えるのは、渡辺自身が語るこの本の執筆趣旨と、実際にこの本に書かれていることとの乖離です。
 渡辺は、日本人の民族的特性や、江戸時代に存在した制度や文物等の事象、すなわち文化は変容しつつも今なお健在だが、文明とはそういう個々の事象が有機的に関連した生活の総体を指すのであって、18世紀初頭に確立し19世紀を通じて存続した生活の総体たる江戸文明、一回かぎりの有機的な個性としての江戸文明、は滅びたと主張します(10頁、16頁、17頁)。
 私は、渡辺の言う民族的特性こそ文明であると考えているのですが、そういった言葉の定義を脇に置けば、ここまではさほど違和感は覚えません。
 しかし、続けて渡辺が、「民族の特性は新たな文明の装いをつけて性懲りもなく再現するが、いったん死に絶えた心性はふたたび戻っては来ない」とし、「滅んだ古い日本文明の在りし日を偲ぶ」ためにこの本を書いたと言い出す(18頁)と首をかしげてしまいます。
 というのは、この本(や「幻景」)で渡辺がもっぱら描いているのは、決して19世紀の日本の制度や文物などではなく、19世紀における日本人の民族的特性、より正確には江戸時代的変容を遂げた日本人の民族的特性だからです。
 民族的特性は、渡辺自身が認めるように、変容はしても決して滅びることはありません。
 実際、渡辺描くところの日本人の民族的特性は、現代的変容を遂げつつも、今なお健在です。
 以下、そのことを、まずこの本からの引用を掲げ、その上で私のコメントをつける形でご説明しましょう。

  イ 引用

<夫婦関係>
ヴェルナーいわく、「わたしは<日本で>・・両親が子どもたちを愛撫し、また子どもたちが両親になついている光景を見てきたが、夫婦が愛しあっている様子を一度も見たことがない。・・日本女性は言葉の高貴な意味における愛をまったく知らない」(320頁)
チェンバレンいわく、「<日本の>下層階級では妻は夫と労働を共にするのみならず、夫の相談にもあずかる。妻が夫より利口な場合には、一家の財布を握り、一家を牛耳るのは彼女である」(357頁)
英国公使夫人メアリ・フレイザーいわく、「英国の歴史のどこを探しても、日本の妻たちがしばしば主人の足もとに捧げたような崇高で強い愛の例はみあた<らない。>愛はほんとうは、私たちには束縛としか見えないもののなかに生れるのかも知れ<ない>」(379頁)

<親子関係>
英国の旅行家イザベラ・バードいわく、「英国の母親がおどしたりすかしたりして、子どもをいやいや服従させる技術やおどかしかたは<日本では>知られていないようだ。<にもかかわらず、>私はこれまで・・子どもが厄介をかけたり、言うことをきかなかったりするのを見たことがない。・・日本人は子どもに真の情愛を持っている」(394頁、416頁)

<庶民と仕事>
スイスの韓日使節団のアンベールいわく、「若干の大商人・・を除けば、概して人々は生活のできる範囲で働き、生活を楽しむためにのみ生きていた」(236頁)
ヒューブナーいわく、「日本の農民はヨーロッパの農民ほど仕事に打ちひしがれてはいない・・<だから>日本の農民には美的感覚を育む余裕がヨーロッパの農民よりもあるのだろう」(453頁)、

<娯楽>
日本で教師をしたグリフィス(英国人?)いわく、「日本人<の場合、>子供特有の娯楽と大人になってからの娯楽の間に、境界線を引くのは・・容易ではない」(87頁)

<性>
プロシャの海軍将校のヴェルナーいわく、「絵画、彫刻で示される猥褻な品物が、玩具としてどこの店にも堂々とかざられている。・・十歳の子どもでもすでに、・・性愛のすべての秘密となじみになっている」(316頁、321頁)
カッティンディーケいわく、「遊女は社会の軽蔑の対象にはならない」(325頁)

<宗教意識>
英国の詩人エドウィン・アーノルドいわく、「宗教と楽しみは日本では手をたずさえている。・・彼らは熱烈な信仰からは遠い(undivotional)国民である。しかしだからといって非宗教的(irreligious)であるのではない」(20頁、538頁)、ロシア正教日本大主教であるニコライは、この前段にもっぱら注目し、日本の庶民は、ロシアの庶民同様、宗教心に篤いと考えた(545頁の太田の理解)

(続く)