太田述正コラム#12454(2021.12.17)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その4)>(2022.3.11公開)

 「上級公家の場合、家禄のほかに、婚姻を結んだ縁家の大名から「お手伝い」と称して千石、何百石などと助力金が送られていた。
 幕末には近衛家<(注7)>と島津家(薩摩藩)、鷹司家と水戸徳川家(水戸藩)の関係が知られるが、三条家は山内家(土佐藩)、井伊家(彦根藩)、蜂須賀家(徳島藩)と縁家の関係にあった。
 (注7)「大半の<公>家は困窮していたようです。例えば、長谷家は正三位でありながら家禄は三十石しかなく嫡男が京の商家に強盗に押入って捕縛されています。それ以外でも同等の公家が盗みや強請りたかりで捕縛され<て>います。また、五摂家でも九条家のように困窮して伝来の什器を質入しするという苦境に陥り、これを買い戻すために幕府に知行地二千余石を差し出す代わりに二万両を借りたいと申し出て断られています。ただ、なかには近衛家のように裕福な公家もありました。近衛家の所領は二千七百九十七石余ですが、その内の千余石は伊丹にあり当時も有名だった酒造りからの運上金が豊富に入り、実質1万石の実入りがあったと言われています。それに加えて近衛家の姫で六代将軍家宣の正室となった天映院の援助や薩摩を始めとする有力諸大名の援助(「お手伝い」と言います)があったので非常に裕福で金貸しまでやったそうです。」←典拠は付いていない
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1286506292

⇒明日のオフ会「講演」原稿で明らかにするように、江戸時代においても、公家の中で近衛家だけは、一貫して、本来の意味での国事に関わり続けたのですから、他の公家達に比べて、いや、天皇家に比べてさえ、より潤沢な資金が必要であり、資金の確保に努力を怠らなかったであろうところ、その結果が、「注7」内で紹介されるような、部外者からのやっかみまじりの評判だったのでしょうね。(太田)

 実美は生まれてまもなく、洛東北新田村(京都市下京区)の農家楠六左衛門のもとに預けられた。・・・
 宮廷社会では里子<(注8)>はごく一般的であった。

 (注8)「京都の公卿社会では,幼年の間だけ近郊の農家へ里子に出す風習があった。あずける側は里扶持(さとぶち)などといって養育料を出す風があった。武家の間でも家臣や百姓などに里子に出し,京都,大阪,江戸の町屋では子どもを近郊の村々の農家へあずけ,手習いをするころに実家へ戻す風があった。里子をあずかるほうは実子がない場合とか,乳のある女が乳をのませるなどという意味もあったが,子どもをあずかることによって若干の収入を得ること,また将来の労働力の確保を期するというものが多かった。」
https://kotobank.jp/word/%E9%87%8C%E5%AD%90-69353

 里子の制は、里親の母乳をはじめとする健康面や、公家の子弟として、親子の情愛をある程度稀薄にしておくことに主眼がおかれたようである。・・・
 実美が三条家にもどったのは・・・1842<年>、五歳のときである。
 学齢に達した実美は、句読・習字などを富田織部<(注9)>より、国学を谷森善臣(よしおみ)・勢多章甫(せたのりみ)、漢学を池内大学・大澤敬邁、和歌を飛鳥井雅典(あすかいまさのり)・渡忠秋、書道を花山院家厚(いえあつ)より学んだ。・・・

 (注9)1815~1868年。「尊攘(そんじょう)運動家。・・・安政の大獄に連座。実万の死後は実美の活動をたすけた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E7%B9%94%E9%83%A8-1095006
 「富田<は、>・・・「胡蝶のゆめ(夢)」と題<する>・・・論策・・・<を、1858>年に三条実<萬>に提出した<が、その中で、>・・・アメリカをはじめとする諸外国との折衝に頭を悩ませ、ついには条約(通商条約)を取り結んだ徳川政権を非難するとともに、これを機に日本の政治体制の「大変革」すべきと・・・述べる・・・富田の主張は、・・・いわゆる「倒幕論」ではない。・・・既存の徳川家を頂点とする政治体制を、「京都」「天皇」という権威を組み込むことで変革しようとするのである。・・・<また、>諸外国に対する見解に<も>、「打ち払い」の意識はない。それは「洋夷の舌頭」を鵜呑みにし、わが国の伝統樽「皇国の基本」が損なわれることに対する危機意識である。」
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SK/0008/SK00080R025.pdf

⇒至れり尽くせりの教育に見えて、公家の子弟教育は、庶民を対象にした「「読み書き算盤」と呼ばれる基礎的な読み方・習字・算数の習得に始ま<った>」寺子屋教育
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%AD%90%E5%B1%8B
では必修であった、算数教育が欠落した欠陥教育であった、とも言えそうです。(太田)

 このうち富田は・・・実萬の側近として将軍継嗣問題ではその意をうけ、江戸に赴き一橋慶喜擁立のため奔走するなど国事の機密にもあずかった。
 富田は勤王論者で、実美の人格形成にも強い影響をあたえた。・・・」(10~11)

⇒富田は、「注9」前段の言う尊攘論者ではなく、後段の言う公武合体論(注10)者であった、と見るべきでしょう。(太田)

 (注10)「公武合体論<は、>幕末期、公(朝廷)と武(幕府)とが一体となって内外の政局に対処しようとした考え方。幕府側より提起され、孝明天皇の異母妹和宮の将軍徳川家茂への降嫁案で具体化した。・・・
 もともと、朝廷・幕府が和解・協力して治平を図るという考え方は江戸中期以前からあり、新井白石は、皇子出家の慣例をやめ親王家をたてるべきことを進言し、閑院宮家創設が実現している。幕府の支配権力の安定期にあっては、天皇にかわり将軍家が大政をとることを神々の心にかなうめでたき世の姿とみる本居宣長や、封建体制の頂点にたつ将軍家が大名以下を統率し天皇へ尊敬の誠を捧げることを秩序正しい尊王のあり方とする水戸学の主張が思想的基盤となっていた。しかし幕末に至り対外危機の深化に伴う反幕府的機運の高揚に対処するため、幕府は朝廷の神秘的・伝統的権威と結ばざるをえなくなった。老中阿部正弘は幕閣専制を改めて、徳川斉昭、島津斉彬らと協調して政局安定を図り、1846年・・・海防勅諭にこたえて対外状況を朝廷に説明し、ペリー来航、和親条約締結に際してもそのつど報告した。次の老中堀田正睦も日米修好通商条約調印を前に上京、勅許を求めたが、これらは公武合体政策の現れであった。ところが大老井伊直弼の専断調印後の権力政治、安政の大獄などにより朝幕関係は険悪化したが、井伊時代に緊張緩和の礎石として画策された和宮降嫁は、桜田門外の変後、老中安藤信正によって1862年・・・実現をみたのである。」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AC%E6%AD%A6%E5%90%88%E4%BD%93%E8%AB%96-1165238

(続く)