太田述正コラム#12468(2021.12.24)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その7)>(2022.3.18公開)

 「翌<1854>年4月、京都御所が炎上すると、阿部老中は内裏の再建に、朝廷の意向を汲んで尽力した。・・・
 実萬と阿部によってもたらされた融和的な朝幕関係は、安政期以降、朝廷が政策決定に実質的な影響を及ぼすうえでの前提となった・・・。
 
⇒「朝廷が政策決定に実質的な影響を及ぼす」ことになったことに関しては、実萬も阿部も何の関係もない、と、改めて指摘しておきます。
 阿部は老中首座に過ぎないところ、阿部の行った前出言明について、(将軍家定に判断能力があったかどうかはさておき、その)家定はもちろんですが、阿部以外の老中達や上級幕臣達が話題にした形跡すら全くないことが、その傍証です。(太田)

 ・・・1854<年>の日米和親条約締結をめぐっては、のちの日米修好通商条約のときとは異なり、朝廷は特にこれを問題視せず、平穏裡にこれを認めた。
 これは朝廷内の最高実力者関白鷹司政通が、和親交易論者であったことが大きい。
 縁家の水戸徳川家を通じて積極的に海外情報を摂取していた鷹司にすれば、開国は合理的な結論であった。
 もっとも、朝廷内にはこの決定に対する不満が少なくなかったらしい。
 実萬は叡慮のほどをよく知るだけに、不満組のひとりであったと思われる・・・。」(19~20)

⇒近衛基熙が、東山天皇や新井白石を使って霊元上皇の反対を押し切って幕府に創設を認めさせた、と私が見ているところの、閑院宮家(注15)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE
の初代の閑院宮直仁親王の妃はこの基熙の娘の近衛脩子(しゅうし。1706~1727年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E8%84%A9%E5%AD%90
であり、その子で鷹司家を皇別摂家として継承した淳宮、のちに鷹司輔平、の生母は脩子ではなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE%E7%9B%B4%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
けれど、輔平やその嫡男政熙、そしてその更に嫡男の政通は、引き続き、鷹司家を秀吉流日蓮主義の近衛家の別動隊として機能させ続けた、と私は見ており、政通の場合、生母が父政熙の正室の蜂須賀儀子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%94%BF%E9%80%9A
であるところ、儀子の父は、佐竹家から蜂須賀家に養子で入った蜂須賀重喜であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E9%87%8D%E5%96%9C
とはいえ、佐竹氏は関ケ原の戦いの際に密かに西軍に通じていて常陸から大幅に減封されて陸奥へと転封されたという歴史を持っている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E6%B0%8F
上に、蜂須賀氏は、心ならずも東軍に与するも、密かに豊国神社を阿波の地に創建し、密かに祀り続けるという歴史を持っており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E5%AE%B6%E6%94%BF
それに加えて、政通の正室は水戸徳川家の清子だったのですから、政通は筋金入りの秀吉流日蓮主義者であった、と私は見ています。

 (注15)世襲親王家(四親王家)には、成立順に、伏見宮、桂宮、有栖川宮(高松宮)、閑院宮、の4家があるが、伏見宮を除き、断絶しており、伏見宮も断絶見込みだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E8%A5%B2%E8%A6%AA%E7%8E%8B%E5%AE%B6
 むしろ、天皇家だけがまだ断絶ないし断絶見込みでないことの方が奇跡に近いと言うべきか。

 ですから、政通は、開国には、海外の軍事情報等が積極的に得られるようになることから当然賛成であったはずであり、「縁家の水戸徳川家」や、近衛家/島津氏や蜂須賀氏や佐竹氏「を通じて積極的に海外情報を摂取していた」ことから、攘夷など、当時の現状では欧米の軍事力に太刀打ちできないので不可能である、ということはもちろん知っていたでしょうが、彼をして開国すべきと判断させた主要な理由ではなかったはずです。
 以上は以上として、孝明天皇が、日米和親条約締結にも実は反対であったということは、頗る重要です。(太田)

(続く)