太田述正コラム#12474(2021.12.27)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その10)>(2022.3.21公開)

「将軍継嗣問題の過熱ぶりにくらべ、当初、条約勅許問題は静穏であった。
幕府・有力諸侯ともおおむね開国論であり、朝廷では開国論の筆頭である鷹司政通が関白を辞したものの、ひきつづき内覧(関白に準ずる職掌)の地位にあり、太閤として隠然たる勢力を有していた。
関白には九条、三公として左大臣近衛忠煕・右大臣鷹司輔煕、そして内大臣実萬がいたが、九条関白は幕府の意向に従うとみられ、条約勅許はさほど問題はないと考えられた。
この状況を一変させたのが孝明天皇である。
天皇は、「夷人(いじん)」、すなわち外国人の希望どおりに開港してしまうことは「天下の一大事」であり、自分の代よりそのようなことになってしまえば「後々迄の恥の恥」であり、歴代天皇に対して申し訳が立たないと懊悩した・・・。
従来の朝廷の決定システムに任せているかぎり、開国は避けられないとみた天皇は、これにとらわれない活動を開始する。
天皇は、まず幕府から正式な勅許の奏請が届く前に、できるだけ多くの意見をもとめ、判断の参考にするとして、<1858>年正月14日、三公および議奏・武家伝奏に通商条約締結に対する意見を問うた。
ついで同25日には、大納言・中納言・参議らに対し、おなじく意見の提出をもとめた。
その際、天皇は、公家一般が鷹司太閤や九条関白に気兼ねすることをおそれ、今回のことは天下の大事であり、各自遠慮なく思うところを意見するようにと訴えた。
また幕府の金銭工作を念頭に、決して買収により主張を曲げてはならないと釘をさしている・・・。
意見を聞くとしているが、天皇の本心が勅許不同意にあることは明らかである。
天皇が三公・両役以外の公家からひろく意見を徴することは、「法度」できびしく統制されていた近世の朝廷では異例の事態であった。
こうした天皇の独自行動は、摂家中心で幕府が表裏でコントロールする朝廷の支配秩序を動揺させていく。
諮問に対する回答は、鷹司太閤が明確な開国論、権大納言二条斉敬<(注20)>(なりゆき)が強硬な条約反対論を唱えたが、実萬もふくめ大半は、徳川御三家以下諸大名の意見を徴すべきという穏やかなものであった。」(21~22)

(注20)1816~1878年。「二条斉信と徳川従子(水戸藩7代藩主・徳川治紀の娘で斉昭の姉)の次男として誕生。徳川慶喜の従兄弟でもある。・・・
日本史上最後の関白であり、人臣としては最後の摂政。・・・
黒船来航以来の政局にあたっては叔父の徳川斉昭と同調し、日米修好通商条約締結の勅許も不可を唱えた。・・・1858年・・・に大老となった井伊直弼の主導により、紀州藩主・徳川慶福(後の徳川家茂)が14代将軍に決定すると、将軍宣下の使者として江戸へ下向。直弼との面会を望むが断られる。同年より始まっ<てい>た安政の大獄では処罰の対象となり、翌・・・1859年・・・2月に10日間の慎(つつしみ)を命じられた。しかし、翌月には内大臣に昇進。・・・1862年・・・にはさらに右大臣に進んだ。
京都の地で尊王攘夷運動が高まりを見せると、青蓮院宮尊融法親王(後の久邇宮朝彦親王)などと共に公武合体(親幕)派と目される。<1862>年12月に国事御用掛に任ぜられ、三条実美や姉小路公知ら攘夷派の過激公卿、およびそれを支援する長州藩と対立。・・・1863年・・・、前関白の近衛忠煕や朝彦親王と共に薩摩藩および京都守護職の会津藩主松平容保を引き入れ、八月十八日の政変を決行し、長州藩や過激派公卿の追放(七卿落ち)に成功した。もとより公武合体を強く欲していた孝明天皇の信頼はますます篤く、同年9月には内覧を命じられ、12月には従一位・左大臣に昇進。あわせて関白となるよう詔勅が下され、拝受した。
以後、朝彦親王と並んで孝明天皇を補佐し、長州処分問題、条約勅許問題、一橋慶喜の徳川宗家相続問題などの重要な政務を取り仕切り、親幕派公卿として活躍。このため、王政復古派の公卿から反撥され、・・・1866年・・・8月には中御門経之・大原重徳ら22名の廷臣が列参して、朝政改革を奏請する事態に発展、斉敬および朝彦親王の罷免を要求するに至った。このため、斉敬は国事扶助の任に耐えずとの理由により辞表を奉呈するが、2人に対する孝明天皇の信頼は篤く、辞意は認められなかった。かえって翌月、22名の廷臣が譴責処分を受けることとなった(廷臣二十二卿列参事件)。ひとまず危機は乗り越えたものの、肝心の孝明天皇が同年暮れに崩御。斉敬の地位は安泰ではなくなる。
翌・・・1867年・・・正月、明治天皇が践祚すると、引き続き摂政に任ぜられ、国政に当たったが、この頃より次第に王政復古派が復権。ついに10月には慶喜が大政奉還を行い、朝廷に政権を委ねるに至る。12月9日の王政復古の大号令により天皇親政が宣言され摂関は廃止された。それに伴い斉敬も朝彦親王と共に参朝を停止された。翌・・・1868年・・・8月には赦されたが、その後朝政には参与することは無かった。・・・
養子の基弘(九条尚忠の八男)が二条家を継いだ。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E6%96%89%E6%95%AC’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E6%96%89%E6%95%AC</a>

⇒軍事について多少なりとも識見があれば、当時、米国が押し付けた条約の締結を拒否する選択肢などないことが分かるはずであり、孝明天皇の締結反対論は言語道断でした。
但し、この条約は、関税自主権の放棄や外国人の治外法権を認めた不平等条約
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A1%E7%B4%84%E6%94%B9%E6%AD%A3′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A1%E7%B4%84%E6%94%B9%E6%AD%A3</a>
であり、一人もそのことを指摘しつつ、忍び難きを忍び、締結すべきである、と、言上した者がいなかったようであることは、いかに、当時の日本に真の海外通などいなかったかを示しており、孝明天皇の無知を嗤う資格のある者は皆無だったと言っていいでしょう。
(恥ずかしながら、私は、以前、孝明天皇が締結に反対したのは、当該条約の不平等性に気付いたからではないか、と考えていた(コラム#省略)ところです。)
で、徳川斉昭/二条斉敬は、締結拒否の選択肢などないことを重々承知していながら、日本の最高権力者の孝明天皇による不適切な権力行使に対して一切諫言することなく従ったことは、無責任極まりないことでした。
それに対し、(当時まだ存命であった)将軍徳川家定と大老井伊直弼は、この孝明天皇による権力行使は余りにも不適切であるとして、従うことを拒否し、この孝明天皇を諫めきれなかったところの、君側の奸、を取り除こうとして、1858年6月に始まる安政の大獄
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%94%BF%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%8D%84′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%94%BF%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%8D%84</a>
に着手したのであり、少なくともその動機においては汲むべき情状が大いにある、と思うのです。(太田)

(続く)