太田述正コラム#12476(2021.12.28)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その11)>(2022.3.22公開)

「実萬は、当初は天皇とも気脈を通じ勅許反対の立場であったが、幕府や諸藩の実情が判明するに従い、「正論英断」だけでは容易ならざる事態をまねきかねず、何分外国事情も武家側の事情もわからず、「扨々(さてさて)当惑至極」と逡巡したあげく・・・、このような回答となった。
当時、実萬のもとには、橋本佐内を遣わした松平春嶽のほかにも、島津斉彬や、縁家の山内豊信から意見がもたらされていた。
彼らはいずれも開国論である。・・・

⇒島津斉彬との接点については、「将軍継嗣問題を契機に,松平慶永,島津斉彬ら一橋派からの入説を受く。」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E4%B8%87-18098′>https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E4%B8%87-18098</a>
というのは表向きの理由であり、実際には、縁家の山内豊信(とよしげ=容堂)は、実萬の正室山内紀子の父、土佐藩10代藩主山内豊策の子の11代藩主の豊資(とよすけ)の子で第13代藩主の豊熈(とよてる)の正室が島津斉彬の同父母妹の候姫に、養子として養育されたところ、この豊信の推薦で、豊信を通じて、その義兄の斉彬に声かけがなされたのではないでしょうか。
松平春嶽との接点については、春嶽の母親が閑院宮家司木村大進政辰の娘だった
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%98%A5%E5%B6%BD’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%98%A5%E5%B6%BD</a>
こと・・初代閑院宮直仁親王の子の鷹司輔平(前出)の嫡男の嫡男の嫡男の女子、が、実萬の嫡男の実美、の正室・・
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE</a>
である可能性があると思いますが、まだ迷っています。(太田)

・・・1858<年>2月に入ると、老中堀田正睦が上京し、幕府は朝廷工作を本格化させる。
堀田は朝廷対策のため、多額の金品を用意していた。
これに対し天皇は、多くの公家が幕府に籠絡されるのではと神経をとがらせ、九条関白や近衛左大臣に対し、開国論者の鷹司父子にはくみしないよう訴えた。
実萬も近衛左大臣の内意をうけ、九条関白へのはたらきかけを行っていたらしい・・・。・・・
<しかし、やがて、>九条関白が一転して幕府支持へと傾くなど、形勢は幕府有利となった。
幕府側についた九条関白は、青蓮院宮や近衛左大臣、実萬内大臣に不穏な動きがあるとして、会合や参内を禁止したため、彼らは積極的に動けなくなった。
さらに九条は、外交措置はすべて幕府に委任するとの勅答案を作成して朝議を主導、3月11日に正式決定し、14日に堀田に勅答を伝達する運びとなった。
事態は幕府の期待どおりに進行するかにみえたが、これまで朝議にあずかることのなかった平堂上(ひらとうしょう)のあいだから反抗の狼煙があがった。
長年マグマとして蓄積されてきた摂家支配への不満が、天皇の諮詢に触発され、噴き出したのである。
権大納言中山忠能(ただやす)・正親町三条実愛(さねなる)らは、連署して直答案の訂正を訴え、3月12日には、岩倉具視をはじめ88名の公家が、勅答撤回をもとめ九条邸に列参した(廷臣八八卿列参事件)。
示威運動は効果をあげ、開国論者であった鷹司太閤が突如勅許反対に転じ、これに青蓮院宮・近衛左大臣・実萬内大臣が「皆々鷹印(鷹司)の強意に随従」・・・したため、形勢は再逆転し、九条関白は孤立、勅答案は撤回を余儀なくされた。
また3月13日には鷹司太閤の命をもって、三公に外国問題に関し朝議に参加することが正式に認められた。
3月20日、朝廷から堀田老中に対し、あらためて諸大名の意見を奏したうえで勅裁を請うようにとする回答が下された。
勅許獲得に失敗した堀田は4月20日、無為のまま江戸へ帰還し、その3日後、井伊直弼が大老に就任する。」(22~25)

⇒私見では、一橋派なるものは、秀吉流日蓮主義者である慶喜を将軍に就かせ、秀吉流日蓮主義に基づく内外政の推進をサボタージュしている徳川幕府に覚醒する最後の機会を与えようというグループであって、孝明天皇が、不見識にも条約締結に反対であったことを利用して、(既に島津氏から高級スパイとして継室篤姫を送り込み、内から圧力をかけていた)将軍家定に対し、更に外から圧力をかけることで、何がなんでも家定に後継として慶喜を指名させようとした、と、私は考えています。
今後検証していきますが、廷臣八八卿列参事件は、近衛家が手を回したものではないか、とさえ、今のところは想像しています。
しかし、陰謀の相手が、正常な判断能力を持ち合わせない家定であったことが、一橋派の蹉跌をもたらすのです。(太田)

(続く)