太田述正コラム#12478(2021.12.29)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その12)>(2022.3.23公開)

「堀田の没落は、将軍継嗣問題では一橋派の打撃となった。
この問題には朝廷も直接、間接に巻き込まれており、実萬のもとにも一橋派の山内豊信と松平春嶽の連名で、密使が送られていた。
実萬も家臣富田織部に書簡を託して江戸に下向させ、豊信・春嶽および伊達宗城に京都の動向を伝えるなどしており、将軍継嗣問題にも一定の関与をしていた・・・。

⇒三条家と宇和島藩主伊達氏との関係についても、私はまだ解明できていません。(太田)

そうしたところ、井伊の大老就任を機に形勢は一気に南紀派に傾き、6月25日、慶福が正式に将軍世子に決定した。
その後、実萬は井伊大老によって弾圧をうけるのだが、もともと三条家と井伊家は縁家の間柄<(注21)>で、実萬と井伊は、かねてより昵懇であった。

(注21)実萬の父公修(きんおさ。1774~1840年)の「母は[彦根藩12代藩主]井伊直幸の養女(蜂須賀宗鎮の娘)」。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%85%AC%E4%BF%AE’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%85%AC%E4%BF%AE</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E5%B9%B8′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E5%B9%B8</a> ([]内)
件の蜂須賀宗鎮の娘の名は美代
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E5%AE%97%E9%8E%AE’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E5%AE%97%E9%8E%AE</a>
だが、彼女が井伊直幸養女となった経緯については、私は未だ解明できていない。

そのため、井伊の大老就任後も、6月4日付で実萬は井伊に書を送り、「皇国の大事」のため「公武御合体」を期待している。
幕末に公武合体<(注22)>構想を最初に表明したのは、実萬であった」(25)

(注22)「大老井伊直弼が暗殺 (→桜田門外の変 ) されたあと,老中安藤信正 (→坂下門外の変 ) らは,衰えつつある幕府の統治力を,朝廷との融和,結合をはかることによって回復しようと考え,孝明天皇の妹和宮を将軍家茂に降嫁させることに尽力した (→和宮降嫁問題 ) 。また薩摩藩,長州藩のなかにも,幕府あるいは朝廷のいずれかを優越させた公武合体による連合政権の樹立に奔走する動きがでた。そのように公武合体は尊王攘夷と対決する立場にあって・・・長州萩藩を中心とする尊王攘夷運動が先鋭化すると,陸奥会津・薩摩鹿児島両藩などの公武合体派は<1863>年8月18日の政変で京都から尊攘派を追放した。一橋慶喜,松平容保,松平慶永,山内豊信,伊達宗城,島津久光らの雄藩連合による参与会議が成立して一時主導権を握ったが間もなく分裂,やがて山内,松平慶永を中心に公議政体論が打ち出され1867年大政奉還を実現するが,結局倒幕派に圧倒された。」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E5%85%AC%E6%AD%A6%E5%90%88%E4%BD%93-63081′>https://kotobank.jp/word/%E5%85%AC%E6%AD%A6%E5%90%88%E4%BD%93-63081</a>
安藤信正(1820~1871年)は、「陸奥国磐城平藩5代藩主。・・・
井伊直弼の強硬路線を否定し、穏健政策を取ることで朝幕関係を深めていこうと考えた(公武合体)。・・・1862年・・・には、直弼の跡を継いで彦根藩主となった井伊直憲に亡父の責任を取らせる形で10万石を減封させている。信正の公武合体策の一つが、孝明天皇の妹・和宮の14代将軍・徳川家茂への降嫁の実現であった。長州藩士・長井雅楽の『航海遠略策』を承認したのも公武合体の一環であった。・・・
1862年・・・1月15日、和宮降嫁問題によって反幕感情を抱いていた尊王攘夷派の水戸浪士の襲撃を受け、背中に負傷したが一命は取り止めた(坂下門外の変)。・・・
しかし、幕閣の一部から「背中に傷を受けるというのは、武士の風上にも置けぬ」と非難の声が上がる。その上、女性問題やアメリカのタウンゼント・ハリスとの収賄問題などが周囲から囁かれ、4月11日に老中を罷免され、溜間詰格への敬遠を余儀なくされた(・・・長井も藩論が攘夷論に転換して失脚した)。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%97%A4%E4%BF%A1%E6%AD%A3′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%97%A4%E4%BF%A1%E6%AD%A3</a>
<その後、>在任中に不正があったとの罪状により隠居・永蟄居に処せられ2万石を削封された。・・・
<なお、在任中は、>久世広周と共に幕政を指導,国益主法掛を新設し軍制改革を進めて幕府の経済力,軍事力の拡充を図りつつ,ヒュースケン暗殺事件,ロシア艦対馬占領事件,東禅寺英公使館襲撃事件などの外交問題の処理に当たる。攘夷論の高揚を配慮し,使節を<欧州>に派遣して江戸・大坂の開市,兵庫・新潟の開港期限の5年間延期を交渉。また・・・雄藩と<も>協調姿勢をとり,安政の大獄で処罰されていた徳川慶恕(慶勝),徳川慶喜,松平慶永,山内豊信の慎を解<いた。>」」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E5%AE%89%E8%97%A4%E4%BF%A1%E6%AD%A3-29446′>https://kotobank.jp/word/%E5%AE%89%E8%97%A4%E4%BF%A1%E6%AD%A3-29446</a>

⇒「公武合体」という言葉が出現する最初のものである可能性がある文献の筆者が実萬であるとしても、だからといって、実萬が「公武合体構想を最初に表明した」人物であるとは限らないでしょう。
私は、今のところ、「公武合体構想を最初に表明した」のは安藤信正であるとの「通説」に従っていますが、この構想を安藤に吹き込んだ者が誰かいたのではないか、という疑いが拭いきれません。(太田)

(続く)