太田述正コラム#12480(2021.12.30)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その13)>(2022.3.24公開)

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[日米修好通商条約の不平等性?]

「<米国>側に領事裁判権を認め、日本に関税自主権が無く、日本だけが<米国>に最恵国待遇を約束するなど、日本側に不利な不平等条約であるというのが定説となっている。しかし、日米修好通商条約は不平等条約ではなく、その後調印させられた改税約書で関税自主権を喪失し、低関税率に固定され、不平等条約となった。<米国>側の領事裁判権に関しては、外国人が日本で法を犯すことがあった場合には、日本の法律で罰せずに、外国の法律で罰することは、家康以来の祖法で定められていたので、進んでこれを認め、また日本側の領事裁判権に関しては、当時日本は海外渡航を禁じていたので、これを明記せずに曖昧にされた。一般的に、<米国>よりも日本の方がはるかに刑罰が重かったからである。ただし、ロシアとの条約では、領事裁判権の双務性が明確に規定されたが、これは国境が確定しておらず、樺太の事情を考慮したためであろう。また、関税率に関しても、日本は自主的に輸入税を20%(一般の財20%、酒類35%、日本に居住する外国人の生活必需品5%)、輸出税を5%と決定しており、一般の財に対して20%という関税率は、アヘン戦争によって強制された清国の5%、インドの2.5%よりもはるかに高く、保護関税政策を採用していた<米国>の40%には及ばないものの、当時の列強諸国が互いに貿易する際に課していたのと同等の水準であった。しかも条約の付属文書である貿易章程の末尾に、「神奈川開港の5年後に日本側が望めば、輸入税ならびに輸出税は改訂しなければならない」という税率改訂の規定があるので、協定関税制といっても、日本側の自主的判断で税率改訂を提起すれば、<米国>は必ず同意しなければならず、逆に<米国>側に関税率の改訂を提起する権利はなく、関税自主権がないとは言えない。もっとも、<米国>は国内手続きだけで税率を改訂できるので対等ではない。さらに、日本が輸出税にこだわったため、双務的最恵国待遇条項の削除を日本は受け入れた。このように、日米修好通商条約は不平等条約ではなかった。その後幕府は同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んだ(安政五か国条約)が、イギリスは狡猾で、日米条約では、関税率は日本側の希望のみで改訂可能であったが、日英条約では英国政府の希望でも税率を改訂可能なように変更されてしまった。さらに、日米修好通商条約の税率が他国にも適用されるはずであったが、日英条約では、イギリス側のごり押しにより、イギリスの主力輸出品目である綿製品と羊毛製品の税率が5%にされてしまった。こうして不平等条約への端緒が開かれた。
その後、尊攘派のテロ活動、薩摩の生麦事件、一橋慶喜の奉勅攘夷政策、長州の下関戦争などによって、列強の介入を招き、幕府は長州藩外国船砲撃事件の賠償金300万ドルの支払いや尊攘派の兵庫開港反対によって、関税引き下げ交渉を余儀なくされ、せっかく勝ち取った従価税方式で20%の関税を放棄させられ、・・・1866年・・・5月13日、輸入税も輸出税もすべて一律に従量税方式で5%(インフレ期は実質税率約3%)という改税約書(江戸協約)の調印を強いられた。日米修好通商条約の貿易章程にあった、日本側が望めば関税率を改訂しなければならないという条件も削られてしまった。この結果、関税自主権を喪失し、低関税率で固定されるという敗戦国に課せられる屈辱的な不平等条約となった。
但し、日米修好通商条約第2条に「日本國と欧羅巴中の或る國との間にもし障り起る時は日本政府の囑に應し合衆國の大統領和親の媒となりて扱ふへし」と規定され、日本と<欧州>列強との間に揉め事が発生した場合<米国>が仲介することを宣言し、他の四カ国との条約にこの文言はなかった。しかし、・・・1862年・・・ハリスが離日した後は、南北戦争(1861年-1865年)の影響もあり、<米国>政府が対日外交を欧州諸国との協調路線に転換したこともあって、これらの条文が履行されることはなかった。また、第13条に「1872年7月4日には条約を改正できる」と設けられた。しかし、後年の新明治日本政府は、その時点で組織が整っていなかったため交渉開始の延期を申し入れ、1876年から各国と条約改正交渉を開始したが、難航し、1894年7月16日の日英通商航海条約の締結により領事裁判権の撤廃が実現。関税自主権を回復したのは1911年2月21日調印の新日米通商航海条約まで要した。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E9%80%9A%E5%95%86%E6%9D%A1%E7%B4%84′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E9%80%9A%E5%95%86%E6%9D%A1%E7%B4%84</a>

⇒以上、引用した記述は首肯できるので、これまで私が、本シリーズ等で日米修好通商条約等を不平等条約としてきた指摘は撤回させていただく。
不勉強を恥じている。(太田)
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「(母利美和<(注23)>『井伊直弼』)。

(注23)もりよしかず。同志社大卒、同大院修士、彦根市職員を経て京大人文科学研究所非常勤講師、京都造形芸術大非常勤講師、彦根市職員、京都女子大助教授、准教授、教授。
<a href=’http://gyouseki-db.kyoto-wu.ac.jp/Profiles/1/0000047/profile.html’>http://gyouseki-db.kyoto-wu.ac.jp/Profiles/1/0000047/profile.html</a>

井伊は当初、条約調印期日を7月27日に延期し、そのあいだに諸侯の意見を徴し、ふたたび勅許を奏請しようとしていた。
ところが、ハリスが軍事的威嚇でもって幕府に調印をせまったため、6月19日、勅許を得ないまま日米修好通商条約を結んでしまう。

⇒「軍事的威嚇」の話は、典拠が記されていないこともあり、疑問です。
ハリスの邦語ウィキペディアには「ハリスはたび重ねて江戸出府を要請し続けていたが、1857年7月にアメリカの砲艦が下田へ入港すると、幕府は江戸へ直接回航されることを恐れてハリスの江戸出府、江戸城への登城、将軍との謁見を許可する。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%82%B9′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%82%B9</a>
とあるだけで、翌年の日米修好通商条約調印との関係は不明ですし、そもそも、上掲記述も、ハリスが砲艦外交を行ったわけではなく、幕府側が勝手にそう思い込んだという内容です。
ハリスの英語ウィキペディアには、登城や調印がらみで米軍事力に係る記述は全く出てきません
<a href=’https://en.wikipedia.org/wiki/Townsend_Harris’>https://en.wikipedia.org/wiki/Townsend_Harris</a>
し、日米修好通商条約の邦語ウィキペディアの調印がらみでも同様であり、「ハリスは清と戦争中(1856年 – 1860年)のイギリスやフランスが日本に侵略する可能性を指摘し、それを防ぐには日本が友好的なアメリカと通商条約を結ぶ他無いと説得した。幕閣の大勢はイギリスとフランスの艦隊が襲来する以前に一刻も早くアメリカと条約を締結すべきと判断した」とあります。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E9%80%9A%E5%95%86%E6%9D%A1%E7%B4%84′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E9%80%9A%E5%95%86%E6%9D%A1%E7%B4%84</a> 前掲(太田)

これに対し各方面から囂々たる非難が起こる。

⇒天皇が締結反対であるにもかかわらず、この条約を調印したことは実質的には非難されるべきですが、「直弼は、条約調印当日の<1858年>6月19日・・・の閣議でも「天意(孝明天皇の意志)をこそ専らに御評定あり度候へ」と、最後まで勅許を優先させることを主張した<けれど、>開国・積極交易派の巨頭であった老中の松平忠固は「長袖(公卿)の望ミニ適ふやうにと議するとも果てしなき事なれハ、此表限りに取り計らハすしては、覇府の権もなく、時機を失ひ、天下の事を誤る」と即時条約調印を主張<し、>幕閣の大勢は忠固に傾き、直弼は孤立した<ものの、>なおも「勅許を得るまで調印を延期するよう努力せよ」と指示したが、交渉担当の井上清直が「已むを得ない際は調印しても良いか」と質問、直弼は「その際は致し方も無いが、なるたけ尽力せよ(已むを得ざれば、是非に及ばず)と答え、列強から侵略戦争を仕掛けられる最悪の事態に至るよりは、勅許をまたずに調印することも可とした・・・閣議の後、清直・忠震の両名が神奈川沖・小柴(八景島周辺)のUSS ポーハタン号に赴き、艦上で条約調印に踏み切<り、>・・・条約調印の4日後、正睦と忠固は老中を罷免され<・・>正睦はこれまで朝意の賛同を得ることのできなかった失策により、忠固は条約締結にあたり朝意を全く意に介さなかったことが責に問われた・・<、>清直、忠震も、違勅の責めを負い、しばらくして左遷されている」(上掲)という事情から、直弼は貧乏籤を引かされたと言える上、当時の関係者が調印と批准を明確に区別してとらえていたのかどうかは不明ながら、(調印ならぬ)批准に相当するところの、孝明天皇の勅許を、「<1858年>10月24日・・・、間部老中が参内したが、孝明天皇は出御しなかった<が、>九条関白らに対して間部老中は無断調印に関し、幕府の本意ではないこと、海岸の防備を固めて、国力がついたら和戦のどちらかを選ぶものと言い訳(この説明を『孝明天皇記』巻八十九では分疏とあり、維新史では弁疏とある)をした<のに対し、>11月9日(12月13日)に宸翰で、開国は日本国の瑕瑾であり承知はできないとする意思を伝えた<けれど、>間部老中は参内を繰り返し言い訳を続ける一方、皇族や公卿の家臣を逮捕させ続けた<結果、孝明天皇が、1858年>12月24日(1859年1月27日)、間部老中を参内させ、鎖国に戻すという説明に心中氷解したという勅書を下した」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87</a>
ことによって得られたことにより批准がなされた、と認定できることから、直弼にせよ幕府にせよ、形式的には非難されるべきことは何もなかったことになるし、実質的にも瑕疵は治癒されたことになります。
いずれにせよ、この条約の締結は、幕府上層部内においてクーデタで行われたに等しく、この時点までに幕府はガバナンスを失うに至っていたと言ってよいでしょう。(太田)

6月23日には一橋慶喜が江戸城に登城し抗議、翌24日には徳川斉昭・尾張藩主徳川慶勝が、登城日でないにもかかわらず、抗議のためあえて登城した。
松平春嶽もまた井伊を邸にたずね、詰問した。・・・

⇒松平春嶽が、その後、「直弼・・・の後を追い江戸城へ押し掛け、直弼や老中を面詰して、違勅調印や将軍継嗣問題についての責任を追及した」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%98%A5%E5%B6%BD’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%98%A5%E5%B6%BD</a>
まで書いてくれないと、春嶽が処分された理由が読者には分かりません!(太田)

抗議のための不時登城は、逆に井伊に反撃の口実をあたえ、7月5日、慶勝・春嶽に隠居・謹慎、斉昭に謹慎、慶喜に当分の間、登城を停める旨の処分が下された。
このほか山内豊信は、将軍後嗣問題にはさほど深く関与していなかったものの、三条家との関係が仇となり隠居に追いこまれた。
7月6日に13代将軍家定が死去したのをうけ、10月25日には慶福あらため家茂が征夷大将軍に就任した。
将軍継嗣問題はこうして南紀派が勝利し、一橋派は壊滅した。」(25~26)

(続く)