太田述正コラム#12492(2022.1.5)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その19)>(2022.3.30公開)

「三条<実美>はこうした状況のなかで、本格的に活動を開始する。
最初の意見表明が、・・・<1862年>5月10日に提出した上書である・・・。・・・
三条というと、過激な攘夷派の印象が強いが、当初の主張は、先の上書で島津久光の「三事策」を支持し、「偏(ひとえに)公武御合体、御和睦の御情意」の「通徹」を望んだことからも明らかなように、公武合体論であった。

⇒くどいようですが、「「三事策」を支持」、は、「幕府に三つの事策の中から一つを選択させることを支持」、ときちんと書いてくれないと不正確です。
それはともかく、実萬は、近衛忠煕の掲げたところの、私の言う、島津斉彬コンセンサス、に賛同していたということであり、同コンセンサスには、徳川家はともかくとして、徳川幕府存続という選択肢、も、攘夷という選択肢、も、どちらも含まれていなかったところ、実萬の子の実美は、孝明天皇の攘夷なる意向に忠実であることを選び、一見、同コンセンサスを否定したかに見えて、その実、忠煕らによって、実美ら攘夷派は、幕府の弱体化、打倒の手段として利用されることとなり、その結果として同コンセンサスの実施に資する役割を果たすことになった、と、言うべきでしょう。(太田)

最初から反幕府的だったわけではない。
なにより公武合体は父実萬の素志であった。
ただ、一般に公武合体が公武の並立、あるいは関係性を曖昧にした合一であったのに対し、三条の場合は、公武の位置づけは上と下、縦関係を明確にした合一であった。
幕府が請け負う大政は、あくまで朝廷の意向に沿い、期待にこたえるものでなければならない。

⇒内藤のこのような、公武合体の捉え方は間違いでしょう。
繰り返し記してきたように、当時の朝廷も幕府も『大日本史』史観を共有しており、既に「公武の位置づけは上と下<と>縦関係<であることは>明確」になっていたはずだからです。
で、これも繰り返しになりますが、問題は、朝廷のトップである天皇が不当な意向を抱いている場合、それにも朝廷や幕府が従うべきかどうかであり、実美らは従うべきだと考え、忠煕らは従うべきではないと考えていたけれど、(天皇の意向を変えさせる努力はあえて行わず、)実美らを泳がせることで幕府の弱体化、打倒を図った、と、私は捉えているわけです。(太田)

上書が提出された翌日の5月11日、朝廷内に国事書記御用<(注32)>が設けられ、三条をふくむ25名が任命された。・・・

(注32)国事御用書記のミスプリだろう。「1862年・・・5月11日・・・、朝廷に国事を議するために設けられた役職。国事御用書記掛ともいう。・・・同年12月9日・・・付けにて国事御用掛の設置に伴い廃止される。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BA%8B%E5%BE%A1%E7%94%A8%E6%9B%B8%E8%A8%98′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BA%8B%E5%BE%A1%E7%94%A8%E6%9B%B8%E8%A8%98</a>
三条西季知(にしすえとも)52歳正二位・権中納言を筆頭に、三条実美26歳正四位下・左近衛権中将、岩倉具視38歳正四位下・左近衛権中将、ら。一番若年なのは、富小路敬直の21歳、一番若輩なのは、四条隆謌(たかうた)の正五位下・無官だ。(上掲)

<そ>の任務は文字どおり書記役であるが、高度な政治情報に接することができるという点で大きな意味があった。
三条のほかにも、翌年の七卿落ちで行動をともにする三条西季知<(注33)>・錦小路頼徳<(注34)>(にしきこうじより<のり>)・沢宜嘉<(注35)>(のぶよし)も任命されるなど攘夷・王政復古派の進出はめざましく、彼らの進出は、関白および三公<(注36)>・両役が独占する朝廷の運営体制に風穴をあけるものとなる。」(36、38~39)

(注33)1811~1880年。「明治元年(1868年)には皇太后宮権大夫となった。明治維新後、参与、教部省教導職の長官である大教正兼神宮祭主となった。三条西家の当主だけあって歌道の宗匠として知られ、西四辻公業と共に明治天皇の歌道師範となった。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E8%A5%BF%E5%AD%A3%E7%9F%A5′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E8%A5%BF%E5%AD%A3%E7%9F%A5</a>
(注34)1835~1864年。「1858年・・・の廷臣八十八卿列参事件に参加し、以後は尊皇攘夷派として活躍する。
・・・1862年・・・、従四位上・右馬頭となる。同年、公武合体派の久我建通の弾劾に加担、5月11日国事御用書記に補された。翌・・・1863年・・・2月、壬生基修と共に庶政刷新と攘夷貫徹を求める建言を提出して国事寄人に任じられ、孝明天皇の攘夷祈願の為の石清水八幡宮行幸に随従した。同年の八月十八日の政変によって失脚し、三条実美、壬生基修、三条西季知、東久世通禧、四条隆謌、澤宣嘉と共に長州藩に落ち延びる(七卿落ち)。これによって官位剥奪の処分を受ける。
後に桑原頼太郎の変名を用いて長州攘夷派と行動を共にするが、赤間関の砲台視察中に病に倒れ、同地で30歳の生涯を閉じた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%A6%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E9%A0%BC%E5%BE%B3′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%A6%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E9%A0%BC%E5%BE%B3</a>
(注35)澤宣嘉(1836~1873年)。「・父:姉小路公遂・母:三条泰 – 三条公修の娘・養父:澤為量・・・
1858年・・・の日米修好通商条約締結の際は・・・勅許に反対して廷臣八十八卿列参事件に関わる。以後、朝廷内において尊皇攘夷派として活動した。
・・・1863年・・・に会津藩と薩摩藩が結託して長州藩が京都から追放された八月十八日の政変により朝廷から追放されて都落ちする(七卿落ち)。
長州へ逃れた後は各地へ潜伏し、同年10月平野国臣らに擁立されて但馬国生野で挙兵するが(生野の変)、3日で破陣。・・・脱出して、四国、伊予国小松藩士らに匿われた。・・・
三条実美の命により、・・・下関の白石正一郎宅に至り、再度長州に逃れる。・・・
・・・1867年・・・の王政復古の後は、参与、九州鎮撫総督、長崎府知事などの要職を務め、明治2年(1869年)に外国官知事から外務卿になり、外交に携わる。・・・
ロシア公使として着任する前に・・・病死した。このため、ロシア公使には急遽榎本武揚が着任することになった。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%A4%E5%AE%A3%E5%98%89′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%A4%E5%AE%A3%E5%98%89</a>
(注36)太政大臣・左右両大臣
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%94%BF’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%94%BF</a>
(注37)武家伝奏と議奏
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E4%B8%A1%E5%BD%B9-1437492′>https://kotobank.jp/word/%E4%B8%A1%E5%BD%B9-1437492</a>

⇒1862年5月11日当時の関白・内覧は九条尚忠でした
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%B0%9A%E5%BF%A0′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%B0%9A%E5%BF%A0</a> 前掲
が、その直後の「6月7日、還俗、従一位に叙す。6月23日、関白宣下、内覧宣下、藤氏長者宣下、一座宣下」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E7%85%95′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E7%85%95</a>
と復権を果たすことになるところの、近衛忠煕、が、陰から糸を引いていた、と、私は見ています。(太田)

(続く)