太田述正コラム#1522(2006.11.22)
<スコットランドとイギリス(その1)>(有料→2007.3.31公開)

1 始めに

 スコットランドはアイルランドとともに、欧州文明の一翼を担い、イギリス(アングロサクソン)文明と対峙してきたけれど、1603年に死去したエリザベス一世に子供がいなかったため、スコットランド国王のジェームス六世がジェームス一世としてイギリス国王に就任し、爾後スコットランドとイギリスは同君連合状態が続き、1707年に両国は合邦するも、その実態は、イギリスによるスコットランドの併合以外の何者でもなかった。イギリスへの反発から、1745年にはスコットランドで大反乱が起きるが失敗した、と以前に(コラム#181で)記したところです。
 このスコットランドとイギリスの微妙な関係は現在も続いています。
 今回はそのあたりのことを、もう少し敷衍してご説明したいと思います。

2 合邦の真実

 (1)スコットランドはイギリスに売られたわけではなかった
 
 韓国では、日韓併合を推進した李朝末期の政治家達を売国奴呼ばわりしていますが、実は、1707年のスコットランドのイギリスとの合邦に賛成したスコットランドの政治家達も、これまでスコットランド人から、売国奴呼ばわりされてきたのです。
 すなわち、スコットランド人達は、当時のスコットランド議会の議員の多数はイギリス側から賄賂をもらうとともに、イギリスの植民地へのアクセスが可能になるという経済的利益に目が眩んで合邦に賛成したと思い込んできました(注1)。

 (注1)イギリス側は、政治的理由でスコットランドとの合邦を望んだ。ルイ14世率いるフランスとの戦争が続く中、フランスが、カトリック・シンパであった旧スチュアート朝の王位継承権者(フランス亡命中)を送り込んでスコットランドで反乱を起こすことを回避する必要があったからだ(
http://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,,1928281,00.html
。10月22日アクセス)。しかし、合邦後の1745年に、皮肉にも上述の大反乱が起きてしまう。

 しかし、最近、そうではなかった、という説が有力になってきました。
 合邦に賛成した議員達の大部分は、合邦のかなり以前から、(経済的・政治的理由もなかったわけではないけれど、)主として宗教的理由から合邦に賛成していたことが分かったのです。ですから、そもそもイギリス側は、スコットランドの議員達を買収する必要などなかったのです。
 具体的には、英国のイギリスのアン(Anne)女王(兼スコットランド女王)からスコットランドの議員の30人の人々に、合計で2万ポンド相当の金の賄賂が支払われたとされてきたものの、このうち4人は議会での投票権さえ持っておらず、かつ、4??5人を除いて、残りの大部分の議員はずっと以前から合邦賛成派であったことが判明したのです。
 しかも、支払われた金は、賄賂ではなく、補償金だったことが裏付けられました。
 それまで支払われていなかった給与のバックペイ、それに、ダリアン事件(Darien disaster)の正当な補償金だったというのです。
 ダリアン事件とは、パナマ地区にスコットランドの植民地をつくる計画が失敗に帰し、生命財産が失われた事件であり、この計画を推進したイギリス王(兼スコットランド王)ウィリアムがその補償に熱心でなかったことから、スコットランド人達の多くは、今日まで、この計画は、スコットランドの独立を妨げるためにイギリス人によってつぶされたと信じ、だからこそイギリスは、スコットランドの議員達に賄賂を贈ってだまらせる必要があったのだと信じ込んできました。
 しかし本当のところは、ダリアン事件は、植民地予定地のロケーションが悪かった等の原因で起こったのであって、スコットランドの議員達は、交渉の結果、イギリスから拠出金の元本に5%の利子をつけた額を取り戻した、というだけのことだったらしいのです。
(以上、
http://books.guardian.co.uk/news/articles/0,,1879769,00.html
(9月26日アクセス)による。)

 (2)その後の成り行き

 イギリス人は、スコットランドとの合邦を喜びませんでした。
 ブート伯爵(John Stuart, 3rd Earl of Bute。1713??92年)がスコットランド人として最初の英国首相になった頃(1762??63年)、優遇措置を求めて次々にロンドン入りするスコットランド人を見てイギリス人は反感を抱いたといいます。
 しかし、やがてこの種の反感は消えていきます。
 スコットランド人が英帝国の拡大と経営の中心的な担い手となったからです。
 このことにスコットランド人も悪い気はせず、こちらでも、合邦への反感は薄らぎました。
 スコットランド人のイギリスに対する反感がぶり返したのは、英帝国が瓦解し、スコットランドが再び貧しくなった頃からです。
 カトリシズムとプロテスタンティズムを折衷した国教会の信徒の多いイギリス人に比べ、スコットランド人には純粋なプロテスタンティズム(Presbyterianism)の信徒が多く、道徳的に優れていて神に選ばれた民である、といった観念が首をもたげてきたのです。
(以上、
http://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,6121,1543486,00.html
(8月10日アクセス)による。)

(続く)