太田述正コラム#12506(2022.1.12)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その26)>(2022.4.6公開)

「攘夷実行の勅旨の受け入れをめぐっては、11月29日、一橋慶喜による饗応の際、幕府に攘夷決行の布告をせまる三条と、これに抗する慶喜とのあいだで押し問答となるなど難航したが・・・、12月5日、勅使は将軍より、これを受け入れる旨の答書を接受した。
将軍の署名には「臣家茂」と記されており、歴史学者佐々木克<(注55)>は、これをもって、将軍と天皇の政治的な位置関係が逆転したとみる・・・。

(注55)すぐる(1940~2016年)。立教大文(史学)卒、同大院博士課程修了、京大人文科学研究所助教授、教授、名誉教授、奈良大教授。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E5%85%8B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E5%85%8B</a>

ならば、朝廷側の全面勝利かといえば、必ずしもそうではない。
答書では、攘夷の勅旨は受けるが、策略などは委任されたく、衆議のうえ上京後に申し上げたいとなっており、全体に曖昧であった。
また直書とは別に、御沙汰によってもとめられた御親兵の設置について家茂は、自分は征夷大将軍で右近衛大将を兼ねているとして、事実上拒否している・・・。・・・
<1863>年前半、攘夷論は過熱と急進化の一途をたどり、攘夷派公家は朝議を支配した。・・・
<しかし、>「勤王三藩」こと薩摩・長州・土佐藩は、攘夷の程度や幕府との関係をめぐって亀裂を深める。・・・
<そして、>長州藩と土佐勤王党は、次第に薩摩藩の排除に傾く。
手始めが、島津家とは縁家で、同藩が頼りとする近衛関白の排斥であった。
三条・姉小路は近衛をなにかと責め立て、嫌気がさした近衛は、<1863>年正月23日、関白を辞職、鷹司輔煕と交代する。・・・

⇒その一つの理由は、以前に述べたところの「忠煕が幕末・維新期に引き続き逼塞していた理由は、息子の忠房に<近衛家の>後を任せる時期が来たと判断したため」(コラム#12180)であり、もう一つの理由は、(次のオフ会「講演」原稿で改めて説明するつもりですが、)近衛家の分家として始まり、1546年に一旦断絶し、「仇敵」の九条家系の二条家によって1579年に再興された鷹司家
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%AE%B6′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%AE%B6</a>
を、江戸時代を通じての、その近衛家別動隊への復帰を図る、近衛家の努力が実を結んでいたので、かねてから忠煕の協力者であった鷹司輔煕に関白を譲ってやり、その上で、自分が裏から、そして、嫡男の忠房が表から、輔煕を支えればよい、と判断したためでしょう。
「嫌気がさした」などという次元の話ではなかったはずだ、ということです。(太田)

在京各藩の尊攘派はすぐに事件を起こす。
2月11日、熊本藩の轟武兵衛<(注56)>(とどろきぶへえ)と、長州藩の久坂玄瑞・寺島忠三郎<(注57)>が突然鷹司邸に押しかけ、攘夷期限の決定を強訴した。・・・

(注56)1818~1873年。「強硬な尊皇攘夷派として知られる肥後勤王党の中心人物の1人で、宮部鼎蔵、永鳥三平らは同志。河上彦斎などは教え子。・・・1862年・・・、熊本藩親兵選抜となり藩主細川護久の護衛で上洛すると、京都での政治活動を活発に行った。
久留米藩士真木保臣らと謀り、福岡藩士平野国臣らと共に薩摩に赴き島津久光(和泉州)に上洛を建議したが、これは逆に尊皇志士の弾圧事件となる寺田屋騒動を生み、直接は攘夷には繋がらなかった。<1863>年・・・の八月十八日の政変により、尊皇攘夷派が追放され、武兵衛にも帰藩が命じられたが、脱藩。長州に下ったが、捕らえられて3年幽閉された。しかし情勢が変化して尊皇派が主流になると、帰参を許された。
明治維新の後、照幡烈之助と改名。明治2年(1869年)、この名前で弾正大忠(権弁事)となって公議所に務めたが、開国派に転じた明治政府とは意見が合わずに、官職を辞して帰郷して後に没した。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BD%9F%E6%AD%A6%E5%85%B5%E8%A1%9B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BD%9F%E6%AD%A6%E5%85%B5%E8%A1%9B</a>
(注57)1843~1864年。「藩校明倫館、私塾松下村塾で吉田松陰に師事した。・・・1862年・・・、高杉晋作、久坂玄瑞、大和弥八郎、長嶺内蔵太、志道聞多、松島剛蔵、有吉熊次郎、赤禰幹之丞、山尾庸三、品川弥二郎らと御楯組結成に参加、長州藩家老の長井雅楽暗殺計画にも参加する。
・・・1864・・・、八月十八日の政変で長州藩が失脚した後に、久坂玄瑞と共に禁門の変で互いに刺し違えて自害して果てた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%B3%B6%E5%BF%A0%E4%B8%89%E9%83%8E’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%B3%B6%E5%BF%A0%E4%B8%89%E9%83%8E</a>

⇒轟武兵衛のような志士は、谷干城などよりも、更にトロかった、というべきでしょう。(太田)

朝議の決定をうけ同日、つまり2月11日夜、三条らが使者となり将軍後見職一橋慶喜の旅館に赴いた。
席上、三条は慶喜・春嶽・容保や上京中の山内容堂に対し、過激の徒による暴発の可能性をちらつかせながら攘夷期限の回答をせまった・・・。・・・
三条は押し込み、一橋らは抵抗したが、すでに攘夷の実行を諾している以上、最後は押し切られ、事実上、4月中旬を攘夷期限とする旨の約束をさせられた・・・。
攘夷期限設定の立役者となった三条の声望は、ほとんど朝廷を圧する勢いで、「関白殿下ですら時には屈従する」といわれた・・・。」(58、60、62~65)

⇒噂話でもその程度に過ぎなかった、ということは、実美、忠煕らの前に出たら小さくなって畏まっていた、ということでしょうね。(太田)

(続く)