太田述正コラム#12508(2022.1.13)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その27)>(2022.4.7公開)

「1863<年>3月4日、公武合体の推進を名目として、将軍としては約230年ぶりに徳川家茂が上京した。
当初は10日間の滞在予定であったが、長州藩の久坂玄瑞・寺島忠三郎らは将軍の滞京延期をもとめ、三条も周旋につとめた。
最終的に家茂の京都滞在は約3カ月に及ぶ。
3月7日、家茂は御所に参内したが、拝謁の次第は尊攘派主導で改変された。
象徴的なのは将軍の席次で、前回三代将軍家光が参内したときは関白の上席であったが、今回は三公の下とされた。
松平春嶽・一橋慶喜・山内容堂や青蓮院宮といった公武合体派は、将軍を辱めるものと反発したが、受けつけられなかった。
このとき大政の再委任が行われ、家茂からは、朝廷からの「御委任」にもとづき、すべてこれまでどおり担当していくとしたのに対し、鷹司関白からは、幕府への御委任は「攘夷」にかぎり、「国事の儀」に関しては、事柄によっては朝廷より直接、諸藩に御沙汰がある旨が伝えられた・・・。

⇒全ては、近衛忠煕・忠房父子が、黒子となって、人形たる鷹司輔煕を動かしていた、というのが、私の見立てです。(太田)

尊攘派の勢いはとまらず、攘夷祈願のため3月11日には賀茂下社・上社、4月11日には石清水八幡宮への行幸が実施された。<(注58)>

(注58)「4月上旬に伊勢神宮に次ぐ社格の京都男山の石清水八幡宮への行幸、天皇から将軍へ攘夷の節刀授与が予定された。おりから急進派公卿中山忠光(ただみつ)ら暴発の風評が流れ、幕府は中止を主張したが、4月11日に延期して実現された。将軍徳川家茂は病気を理由に供奉を辞退し、名代一橋慶喜以下諸藩兵が参列した。祈願中の夜半、慶喜は急病を理由に節刀授与を辞退し退去した。」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E7%94%B7%E5%B1%B1%E8%A1%8C%E5%B9%B8-1513978′>https://kotobank.jp/word/%E7%94%B7%E5%B1%B1%E8%A1%8C%E5%B9%B8-1513978</a>
「慶喜は本当に病気だったと回想している・・・
<なお、3月11日には、孝明天皇は、泉涌寺<にも>行幸<している。>・・・
<これら行幸は、>2月20日<に、長州藩>世子毛利定広<が>・・・建議した<ものだ。>
<石清水八幡宮>行幸前日、かねてから行幸に消極的だったという孝明天皇は体調不良を理由に延期を関白に諮ったが、国事参政三条実美の強い反対で意思は通らなかった。」
<a href=’http://www4.plala.or.jp/bakumatsu/bakumatu/tuushi-b3-kamogyoko.htm’>http://www4.plala.or.jp/bakumatsu/bakumatu/tuushi-b3-kamogyoko.htm</a>

天皇の洛中・洛外への行幸は、火災など非常時をふくめてもほとんどまれであり、朝廷びいきの京都の民衆は歓喜した・・・。
尊攘派の攻勢はなおもとまらず、幕府は5月10日を期して攘夷を決行することを約束させられてしまう。
御親兵も設置されることになり、3月18日、幕府より10万石以上の諸藩に対し、万石につき1人を皇居常備の守衛に充てるとして、藩士を京都に差し出すよう命令が下された。
きわめつけは、天皇みずからによる攘夷意志の表明で、5月10日、「譬(たとえ)皇国一端黒土に成候共(なりそうろうとも)、開港交易は決而不好候(けっしてこのまずそうろう)・・・と、断固たる決意が示された。・・・
これに対し公武合体派は、3月14日に入京した島津久光が、攘夷の決議は軽率であること、将軍後見職・政事総裁職を「奴僕(ぬぼく)」のように待遇する一方で、「浮浪藩士の暴説御信用」になるのは不可であること、「暴説御信用の堂上方」はすみやかに退け、浪士らは幕府にて取り締まること、大政は将軍へ「御委任」のこと、用のない諸大名や藩士はすべて京都より帰すこと、藩主の命による藩士以外は面会、信用せず、「浮浪」の徒は最も不可であることなどを言上した・・・。
だが、これらの献言は一つも採用されず、憤慨した久光は、ただちに鹿児島にもどってしまう。
春嶽・容堂らも帰藩し、京都政局はいよいよ尊攘派が牛耳るところとなった。・・・」(67~69)

⇒薩摩藩主の忠義(1840~1897年)は、1858年に亡くなった斉彬の「遺言で・・・忠義に斉彬の長女を嫁がす条件で仮養子とし、六男・哲丸を後継者に指名しており、哲丸と忠義との相続争いを未然に防止する内容になっていたが、哲丸は・・・1859年・・・に3歳で夭折した」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC#%E5%AE%B6%E7%B3%BB’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC#%E5%AE%B6%E7%B3%BB</a>
という経緯の下、藩主に就任していたわけですが、西郷や大久保から、島津斉彬コンセンサスを叩きこまれると共に、近衛父子の目論見を逐一伝えられていたはずであり、久光とは違ってこの時点で憤激していたとは思えません。
そんな忠義に対しては、当然、(その意識が時代に取り残され続けたところの、)実父の久光(1817~1887年)、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E4%B9%85%E5%85%89′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E4%B9%85%E5%85%89</a>
の覚えは目出度くはなかったでしょうが、「<久光が1887年12月に亡くなった
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E4%B9%85%E5%85%89′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E4%B9%85%E5%85%89</a>
後の>1889年・・・2月11日の大日本帝国憲法公布の日、忠義が洋服姿でありながら髷を切らずにいたことに驚いたと、ドイツの医学者ベルツは日記に記している(ちなみに当時の首相は旧家臣の黒田清隆)<ところ、>西洋文化に造詣が深かったにもかかわらず旧習に固執したのは、父・久光の方針に従ったためとされる<けれど、>・・・病気の治療の際<も>一切洋薬を飲まず和薬や漢方薬を服用していた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E7%BE%A9′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E7%BE%A9</a>
のは、そんな久光を宥めるための、忠義による渾身の擬態であった、と、私は見ています。(太田)

(続く)