太田述正コラム#12510(2022.1.14)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その28)>(2022.4.8公開)

「これまで天皇は大政委任を支持しつつも、同時に過激な攘夷論にも共感するという態度を取ってきた。
だが、攘夷論が先鋭化し、幕府否定の色合いが強まるにつれ、天皇は、三条ら急進攘夷派を嫌忌するようになる。
きっかけのひとつが、石清水社行幸をめぐる騒動であった。・・・
行幸の前、天皇は持病の眩暈を発し、このため延期を希望したところ、三条は無理に面会をもとめ、「実病、虚病尋候(たずねそうろう)て不承知の様子」であったという。・・・
関白も制御できない急進攘夷派の専横に、天皇は切歯扼腕し、彼らを「暴論の堂上」と憤っている・・・。

⇒いやなに、近衛父子の作・演出に基づき、鷹司輔煕は、三条らを制御しようとはしなかった、ということでしょう。(太田)

<天皇の、>彼らに対するむき出しの嫌悪と排斥論、これと表裏をなした青蓮院宮や薩摩藩への期待は、八月一八日の政変の重要な伏線となる。・・・

⇒天皇に三条らに対する「嫌悪と排斥論」を抱かせるように、近衛父子/薩摩藩が仕向けた、というわけです。(太田)

<1863>年4月下旬、将軍家茂が大坂巡視の後に軍艦で江戸に帰還するという説が出た際、姉小路はその阻止を名目に、長州藩の佐々木男也<(注59)>・桂小五郎<(注60)>、紀州藩の伊達五郎(陸奥宗光)<(注61)>ら約70人を引き連れ、大坂で幕府艦隊に乗り込み、大坂・兵庫・淡路・紀伊などの沿岸警備巡検を行っている。」(70~71、73)

(注59)おなり(1836~1893年)。「長州藩遠近附士・・・の子<。>[長崎へ遊学。政務座見習・蔵元役などを勤め、・・・1860<年>銃陣教練助教となり、西浜操練場開場に参加。・・・1862・・・文学遊学のため上京後、文書・記録役となり手廻組に加えられ、奉勅攘夷活動をする。・・・1861<年、>同志と高輪東禅寺英国公使館を襲う。]1862年・・・右筆となり、・・・1863年・・・学習院用掛となって以降京都で国事に奔走する。同年の八月十八日の政変後も暫く京都に潜伏するが、間もなく帰国した。帰国後は政務座見習や蔵元役を務め、・・・1864年<の>・・・禁門の変では福原元僴の隊に所属して戦うが、敗戦とともに再び潜伏。桂小五郎とともに鳥取藩邸への援助を求めるも断られたために再び長州へ逃れた。同年の内に八重垣隊を結成し、間もなく南園隊と改称して自身はその総督となる。・・・1865年・・・長州の他隊とともに長州藩へクーデタを起こしてこれに勝利し、藩論の転換に成功。・・・1866年・・・第二次長州征伐の際には石州口の主軍とし・・・て幕府軍と交戦しこれを破った。・・・1867年・・・には南園隊と義昌隊が合流して結成された振武隊の総督を務め、戊辰戦争では北越戦争で活躍した。
維新後は山口藩国政方、施政司試補を歴任したのち、第百十国立銀行支配人、共同運輸会社支配人、日本郵船支配人を務めた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E7%94%B7%E4%B9%9F’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E7%94%B7%E4%B9%9F</a>
<a href=’http://ya-na-ka.sakura.ne.jp/sasakiOtoya.htm’>http://ya-na-ka.sakura.ne.jp/sasakiOtoya.htm</a> ([]内)
コトバンクは、「おなり」ならぬ、「おとや」、としている。
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E7%94%B7%E4%B9%9F-1078029′>https://kotobank.jp/word/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E7%94%B7%E4%B9%9F-1078029</a>
(注60)木戸孝允(1833~1877年)。「長州藩の藩医である和田昌景の長男として生まれる。和田家は毛利元就の七男・天野元政の血を引くという。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81</a>
(注61)1844~1897年。「生家は・・・12世紀に陸奥伊達氏から分岐して駿河国に土着した駿河伊達氏(の分家紀州伊達家)の子孫である。・・・国学者・歴史家としても知られていた父の影響で、尊王攘夷思想を持つようになる。父は紀州藩に仕え、財政再建をなした重臣(勘定奉行)であったが、宗光が8歳のとき(1852年)藩内の政争に敗れて失脚したため、一家には困苦と窮乏の生活が訪れた。
・・・1858年・・・、江戸に出て安井息軒に師事するも、吉原通いが露見し破門されてしまう。その後は水本成美に学び、土佐藩の坂本龍馬、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)・伊藤俊輔(伊藤博文)などの志士と交友を持つようになる。
・・・1863年・・・、泊園書院(現・ 関西大学)で学んだのちに勝海舟の神戸海軍操練所に入り、・・・1867年・・・には坂本龍馬の海援隊(前身は亀山社中)に加わるなど、終始坂本と行動をともにした。・・・
版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、地租改正に大きな影響を与え、カミソリ大臣とも呼ばれて第2次伊藤内閣の外務大臣として不平等条約の改正(条約改正)に辣腕を振るった。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E5%A5%A5%E5%AE%97%E5%85%89′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E5%A5%A5%E5%AE%97%E5%85%89</a>
「駿河伊達氏は伊達氏の祖である伊達朝宗の四男の四郎為家を祖とする家系であり、・・・紀州伊達家は、大坂夏の陣で活躍して徳川家康の十男の頼宣(紀州徳川家の祖)に仕えた伊達盛次を祖とする。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B7%9E%E4%BC%8A%E9%81%94%E5%AE%B6′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B7%9E%E4%BC%8A%E9%81%94%E5%AE%B6</a>

⇒たまたま、ここに登場する、佐々木、桂(木戸)、陸奥、のうち、佐々木の維新後の活躍度が、長命であったにもかかわらず、桂や陸奥に比べて相対的に劣っているのは、家系において遜色があったことも一因だった可能性がありますね。
ちなみに、長州藩の武士階級には、一門、永代家老、寄組、手廻組、物頭組、大組(高杉晋作、桂小五郎)、船手組、遠近附(佐々木男也)、寺社組(久坂玄瑞)、無給通(吉田松陰はこの階級に生まれ、吉田家(大組)に養子となった)がありました。
<a href=’http://kinnhase.blog119.fc2.com/blog-entry-302.html?sp’>http://kinnhase.blog119.fc2.com/blog-entry-302.html?sp</a> (太田)

(続く)