太田述正コラム#12516(2022.1.17)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その31)>(2022.4.11公開)

「真木を得たことで、朝廷における攘夷と王政復古は観念論を脱し、実践段階へと移行をはじめる。
これを一挙に実現させるための起爆剤が、攘夷親征行幸であった。
すなわち、天皇が意志を示した「親征の叡慮」を現実化させることで、征夷大将軍より軍事指揮官の役割、ひいては為政者としての地位を奪い、天皇はこれに代わる存在、すなわち真の国の統治者となる。
まさに革命的転換である。
この展開に悲鳴をあげたのが、ほかならぬ天皇自身であった。
天皇は、青蓮院宮と薩摩藩に救いをもとめた。

⇒幕府は1863年年5月10日をもっての攘夷実行を孝明天皇に約束していたところ、その幕府は攘夷を軍事行動とは考えていなかったというのに、長州藩は、1863年5月11日、米仏蘭艦船に対して無通告砲撃という軍事行動を起こすことで下関戦争を始めていましたし、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%88%A6%E4%BA%89′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%88%A6%E4%BA%89</a>
それを横目で見つつ、島津藩までもが薩英戦争を敢行したことによって、欧米勢力との全面対決寸止めの状態が生起され、軍事的攘夷から逃げ回る幕府の権威を更に大きく失墜させることに成功したことから、近衛父子/薩摩藩の島津斉彬コンセンサス信奉者達、は、軍事的攘夷の打ち方止めへと舵を切ることとし、その舵切にも孝明天皇を利用させてもらうべく、同天皇に手を回したのであろう、と私は見ています。(太田)

7月、薩摩にいる島津久光に朝廷より上京が要請された。
近衛忠房・忠煕<父子、及び>二条斉敬(なりゆき)からの書簡では、表向きの理由は「御親征御用」だが、正式に決定したわけではなく、巨細(こさい)は上京後に申し入れるとあった。
さらに「内実は上(かみ)にも御親征御好みに在(あ)らせられざる」と、親征は天皇の本意ではない旨が付言されていた・・・。
同時期に、天皇より久光に宛てた書では、「即今内勅を以て奮発の儀は、決して宜しからず」・・・と親征の意志が明確に否定されていた。
久光は結局、上京しなかったが、薩摩藩は尊攘派の策動をつぶすべく行動を開始する。・・・

⇒1863年7月2~4日の薩英戦争の後始末のため、島津久光が薩摩を動けないことは承知の上で、近衛父子らが、久光に仁義だけ切り、在京薩摩藩兵(と会津藩兵)を使って(注65)、長州藩/尊攘派を京から叩き出そうとした、というのが私の見立てです。(太田)

(注65)「8月13日、・・・薩摩の高崎正風(左太郎)が会津藩公用方秋月悌次郎を訪れ協力を求めた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%9C%88%E5%8D%81%E5%85%AB%E6%97%A5%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%9C%88%E5%8D%81%E5%85%AB%E6%97%A5%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89</a>
高崎正風(1836~1912年)。「高崎氏は豊後大友氏の一族で、・・・大友氏の姫君が島津氏に嫁いだ際に御付きとして薩摩に来訪し、姫君の子孫でもある歴代の島津氏当主に代々仕えた。・・・
寺田屋騒動の立役者となる。これにより久光の信頼を得て、その後は・・・諸藩との交渉役・偵察役として活躍する。・・・
薩英戦争では伝令を務めるが、公武合体派であり、久光の意を受けて会津藩公用方秋月悌次郎・広沢富次郎・大野英馬・柴秀治らに密かに接触する。そして・・・1863年・・・8月18日、青蓮院宮改め中川宮と、秋月ら会津藩と協力して、京都から長州藩を追い落とすのに成功し(八月十八日の政変)、薩会同盟の立役者となる。その功により京都留守居役に任命され、・・・1864年・・・には、薩摩藩士でありながら中川宮・山階宮の家臣となった。・・・また、・・・1865年・・・には仁和寺宮のもとにも勤めるようになる。
しかし、その後藩内で討幕を望む声が大きくなり、薩長同盟が結ばれるなどして薩会同盟が消滅していくと、公武合体派は退潮を余儀なくされ、<正風>も一時帰国することとなる。その後再び京都に上り、王政復古後の・・・1868年・・・に征討軍参謀を仰せ付けられるも大坂城の落城を理由に辞退し帰国する。このように武力討幕に反対して西郷隆盛らと対立したため、維新後は不遇をかこった。・・・
1875年)に宮中の侍従番長、翌9年(1876年)から御歌掛などを務め、同年に侍補となり、明治11年(1878年)から翌12年(1879年)にかけて元田永孚・佐々木高行・土方久元・吉井友実らと天皇親政運動を展開したが、明治12年に政府に侍補を廃止され失敗した。
明治19年(1886年)に二条派家元三条西季知が死去した後を受け御歌係長に任命される。明治21年(1888年)には御歌所初代所長に任命された。明治23年(1890年)、皇典講究所所長山田顕義の懇請により初代國學院院長(明治26年まで)。明治28年(1895年)、枢密顧問官を兼ねた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B4%8E%E6%AD%A3%E9%A2%A8′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B4%8E%E6%AD%A3%E9%A2%A8</a>

⇒薩摩藩の中にも、島津久光やこの高崎正風のような、島津斉彬コンセンサスの核心である、秀吉流日蓮主義、にコミット不十分な人々が少なからず存在したことが分かります。
しかし、「左」の尊攘派の人々同様、これら「右」の人々も、近衛父子によって、TPOに応じて貴重な手ごまとして「活躍」の場を与えられた、といったところです。(太田)

この時期の三条は、得意の絶頂のはずであったが、その実、心身は疲労の極にあった。
・・・<1863>年8月18日、事態は急転した。
未明より御所の九門が薩摩・会津両藩兵などによってかためられ、急進攘夷派の公家は参内ができなくなった。
完全な不意打ちであった。・・・
三条以下7名の公家は、長州藩士や真木・土方・宮部・水野正名(まさな)らと協議した。
その結果、・・・御親兵と薩会両藩とのあいだ<の>・・・戦闘となっては御所に対し恐れ多いとして、妙法院へと退去した。
同所で今後の去就を協議し、最終的に一同は長州へ退くこととなった。・・・」(78~80)

(続く)