太田述正コラム#12518(2022.1.18)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その32)>(2022.4.12公開)

「八月一八日の政変後、京都政局は公武合体派が掌握した。
朝廷では鷹司関白が辞任し、新関白二条斉敬(なりゆき)や中川宮(青蓮院宮)が、朝議の中心となった。
朝廷の命により、島津久光・山内容堂・伊達宗城(むねなり)や、将軍後見職一橋慶喜・前政事総裁職松平春嶽が入京し、彼らに京都守護職松平容保を加えた6名が参預に任命された。
参預会議<(注66)>の議題は、長州藩の処分と、対外方針の決定であった。

(注66)朝廷は有志大名に期待し、島津久光、松平春嶽、一橋慶喜、宇和島藩前藩主・伊達宗城、土佐藩前藩主・山内容堂らに上洛を命じ、混迷を極める政局の安定を図るため、朝政改革も含めた今後の方策を探った。これを受けて10月3日に久光、10月18日に春嶽、11月3日に宗城、11月26日に慶喜が入京。やや遅れて12月28日に容堂が入京した。この間、天皇から極秘の宸翰を受けた久光が積極的な動きを見せる。天皇は朝政改革で尊王攘夷過激派を一掃した後は従前のごとく幕府へ大政を委任し、公武合体して事に当たる方針を示したが、薩摩藩はむしろ将軍を上京させた上で有力諸侯の合議による諮問機関を設け、公議政体を作ることこそ公武合体であると考え、諸侯の協力を求めた。12月5日薩摩藩は、賢明な諸侯を朝廷に召して議奏とすべきであると提案。慶喜の宿所に集った春嶽、宗城、松平容保らもこれに賛同し、決定事項となった。これが参預会議の基本方針となる。
さらに、久光の奏上により、12月23日に鷹司輔煕が関白を罷免され、親幕府的な二条斉敬が就任した。
こうして先の薩摩藩上表に基づき同大晦日に、久光を除く上記4人と容保が「朝廷参預」に任命される(久光のみ翌・・・1864年・・・正月13日に任命)。この参預の職務は二条城を会議所とし、二日おきに参内して天皇の簾前にて朝議に参加するというものであった。
正月15日、将軍・徳川家茂が再上洛。孝明天皇は家茂に対し、醜夷征服の策略を議すこと、参預諸侯の政治参加、公武合体方針の明確化などを求めた宸翰を下した。これを受け、2月16日参預諸侯に老中部屋への出入りが許され、正式に幕政参加が命じられた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E9%A0%90%E4%BC%9A%E8%AD%B0′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E9%A0%90%E4%BC%9A%E8%AD%B0</a>
「先に5月の攘夷断行のために上京していったん帰府した将軍徳川家茂も、また大坂経由で、<18>64年正月15日に着京、21日右大臣に任ぜられた。任命以前から京都にあって、久光や慶永の宿舎でたびたび会合していた参<預>の面々は、<18>64年正月から2月にかけて、御所や二条城で数日ごとに会合し、大小の国政問題を議論した。しかし、とくに京都を追われた三条実美らを受け入れている長州藩の処分や、横浜鎖港の可否をめぐり、朝廷の公卿たちや、将軍家茂、政事総裁職松平直克(なおかつ)らも含めての、意見が対立した。松平慶永は2月19日にいったん辞意を表明し、山内豊信は2月20日辞職して帰国した。久光の横浜鎖港反対論などが強く出されたこともあったが、国政の実質的な主導権をめぐって、家茂や慶喜と、慶永、久光、宗城らの対立が決定的となり、3月9日残る5名全員が朝議参予を辞職し、事あるときに参内することで天皇の了承を得たため解体した。」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E5%8F%82%E4%BA%88%E4%BC%9A%E8%AD%B0-1540786′>https://kotobank.jp/word/%E5%8F%82%E4%BA%88%E4%BC%9A%E8%AD%B0-1540786</a>

⇒久留米藩の有馬氏出身の松平直克は、「孝明天皇の意向に沿い、禁裏御守衛総督の一橋慶喜と共に横浜港の鎖港を推進、同港鎖港を名目に挙兵した天狗党の乱の鎮圧にも反対したことから、他の幕閣と激しく対立した。・・・1864年・・・6月、政争は両派共倒れの形となり、直克は政事総裁職を罷免され、以後は幕政から退いた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E7%9B%B4%E5%85%8B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E7%9B%B4%E5%85%8B</a>
という興味深い人物ですが、深入りは止めておきます。
とまれ、横浜鎖港ができる、などと、武家にして知力抜群の慶喜や直克・・直克については上掲による・・が考えていたはずもないのであって、彼らは、長州藩の攘夷の軍事的決行に呼応して、自分達の失権を覚悟の上で幕府内で無理難題をふっかけて内部抗争を出来させ、幕府の弱体化を促進させようとした、と、私は考えるに至っています。
(直克の方は、慶喜の真意を察知し、一方的に共感したのではないでしょうか。)
結果、直克は政事総裁職を罷免されたけれど、「7月19日には長州藩尊攘派が武装上洛し、警衛にあたっていた会津藩・薩摩藩の兵らと京都市中で交戦し敗走した(禁門の変)。このため7月23日には長州藩が孝明天皇によって朝敵に指定され、朝廷も幕府に対して「夷狄のことは、長州征伐がすむまではとやかくいわない」との意を示し、鎖港問題は棚上げされた格好となった」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8B%97%E5%85%9A%E3%81%AE%E4%B9%B1′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8B%97%E5%85%9A%E3%81%AE%E4%B9%B1</a>
ことから、慶喜は失権を免れることになるところ、その慶喜がその後将軍になったことで、慶喜は見事に幕府の終焉を「即時」かつ「円滑」に実現するわけです。(太田)

だが、満足な成果をあげられないまま、すぐに空中分解してしまう。
薩摩藩はその後、公武合体論からはなれ、幕府とも距離をおくようになり、ついには長州藩と協力して反幕府路線へと転じることとなる。」(87)

⇒そもそも、慶喜が、最初から、横浜鎖港を欧米諸国が飲むはずがなく、仮に日本が強行すれば、軍事干渉を受け、日本側はなすすべもなく敗れる、と、その本心を天皇に明かし、天皇の翻意を促しておれば、久光も満足し、参預会議も機能し、公武合体下で、幕藩体制が維持されることになったでしょうが、慶喜は、それでは、秀吉流日蓮主義は遂行できない、と、考えたのでしょう。
更に付け加えれば、水戸徳川家出身の慶喜のような人物や、優柔不断のままあっけなく亡くなってしまったところの紀州徳川家出身の家茂のような人物、を、いざという時に輩出させるべく、江戸時代に入ってから、対水戸徳川家工作を嚆矢として、次々と布石を打ってきたところの、近衛家/島津氏、の努力が、見事なまでに実を結んでいた、というわけです。(太田)

(続く)