太田述正コラム#12522(2022.1.20)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その34)>(2022.4.14公開)

「彼らは京都における幕府側の代表であったが、朝廷と密接に結ぶ一方で、江戸の幕閣とは異なる独自の動きをみせ、また諸侯を事実上排除するなど、政局を主導する。
これに対し攘夷派は退潮の一途であった。
攘夷親征に触発され8月17日に大和で蹶起した天誅組<(注68)>はあえなく鎮圧され(天誅組の変)、御親兵<(注69)>は9月5日、解散に追い込まれた。

(注68)「公卿中山忠光を主将に志士達で構成された尊皇攘夷派の武装集団。・・・
結成時の同志は38人で、そのうち18人が土佐脱藩浪士、8人が久留米脱藩浪士であった。このほか淡路島の勤皇家で大地主であった古東領左衛門は先祖代々の全財産を処分し、天誅組の軍資金として供出した。・・・
装備は狭山藩など、河内地方の各藩から徴発したゲベール銃・・・、槍、弓矢、刀などで極めて貧弱だったと思われる。・・・
8月17日夕方、五条の町へ着いた彼らは、幕府天領の大和国五条代官所を襲撃。代官鈴木正信(源内)の首を刎ね、代官所に火を放って挙兵した。桜井寺に本陣を置き五条を天朝直轄地とする旨を宣言し、「御政府」あるいは「総裁所」を称した。五条御政府と呼ばれる。
挙兵直後・・・、八月十八日の政変が起こり長州藩や攘夷派公卿や浪士達が失脚し、攘夷親征を目的とした大和行幸は中止。挙兵の大義名分を失った天誅組は「暴徒」とされ追討を受ける身となった。
天誅組は天の辻の要害に本陣を移し、御政府の名で武器兵糧を徴発し、吉村寅太郎は五条の医師乾十郎とともに十津川郷(奈良県吉野郡十津川村)に入り、反乱に加入を説得。その結果、野崎主計ら十津川郷士960人を募兵して兵力は膨れ上がったが、烏合の衆に過ぎ<なかった。>・・・
天誅組は高取城を攻撃するが、・・・敗走。・・・
幕府は諸藩に命じて大軍を動員をして天誅組討伐を開始<し、>天誅組は・・・しだいに追い詰められる。朝廷から天誅組を逆賊とする令旨が京都在住の十津川郷士前田雅楽に下され、急遽現地に赴いた前田は十津川郷士を説得。9月15日、主力となっていた十津川勢が離反を宣言。・・・9月19日、忠光は天誅組の解散を命じる。・・・
どうにか畿内から脱出する事ができた忠光も・・・1864年・・・11月15日。長州にて潜伏中に、・・・<長州藩の支藩の>長府藩<の>・・・刺客に襲われて暗殺された。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E8%AA%85%E7%B5%84′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E8%AA%85%E7%B5%84</a>
「中山忠光<(1845~1864年)は、>権大納言・中山忠能<(前出)>の七男。母は平戸藩主・松浦清の娘愛子。明治天皇の生母中山慶子は同母姉であり、忠光は明治天皇の叔父にあたる。・・・
明治天皇(祐宮)は5歳まで中山家で育つ。・・・
<また、忠光が>長府藩潜伏中、・・・<設けた女子である>南加の孫で忠光の曾孫にあたる浩は、清朝最後の皇帝でのちに満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀の弟である溥傑に嫁いだ。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E5%BF%A0%E5%85%89′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E5%BF%A0%E5%85%89</a>
(注69)「御親兵(ごしんぺい)は天皇及び御所の護衛を目的とする軍隊。制度的には文久3年(1863年)と慶応4年(1868年)、明治4年(1871年)と3度設置されている。・・・
文久の御親兵<は、>・・・勅使三条実美ら<が>、攘夷督責・親兵設置の勅諚を将軍家茂に伝え<た上で、>1863年・・・3月、三条実美の建議によって天皇護衛の兵として設置され<、>10万石以上の大名に対し、1万石に一人の割合で兵を供出させた。 同年9月・・・、朝廷は、親兵解散を命令した。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E8%A6%AA%E5%85%B5′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E8%A6%AA%E5%85%B5</a>

⇒中山忠光・慶子弟姉の母方の祖父の松浦清(静山)は、「江戸時代後期を代表する随筆集『甲子夜話』で著名であ<り、>大名ながら心形刀流剣術の達人であったことでも知られる」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E6%B8%85′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E6%B8%85</a>
という、文武に卓越した人物でしたが、その『甲子夜話』の内容からも、保守的で、かつ日蓮主義とは無縁の、人物であったよう
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%AD%90%E5%A4%9C%E8%A9%B1′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%AD%90%E5%A4%9C%E8%A9%B1</a>
であり、忠光は、公卿であった父、と、武家のこの祖父・・松浦氏は嵯峨源氏・・の影響で、尊王の念厚き、武家志向の、但し、日蓮主義に関心がない、人物になった、といったところでしょうか。
叔父であるこの忠光と実母である慶子が、それぞれ明治天皇に及ぼした影響についても、そう遠くない将来、追究してみたいですね。(太田)

諸藩でも攘夷・勤王派は減退し、土佐勤王党は前藩主山内容堂によって弾圧された。・・・
その一方で、皮肉なことに、政変の震源地である朝廷では、依然として攘夷論が健在であった。
天皇自身、急進攘夷派の放逐には満足していたが、攘夷を後退させたと取られることは望んでおらず、政変後もさかんにその決行をもとめていたからである・・・。」(88)

⇒孝明天皇は、要は、従前通り、日本の交易相手をオランダ一国のみとする、1673年以来の対外政策
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B3%E5%8F%B7′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B3%E5%8F%B7</a>
の維持に固執した、と考えられるわけですが、それなら、どうして、安政五カ国条約
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%94%BF%E4%BA%94%E3%82%AB%E5%9B%BD%E6%9D%A1%E7%B4%84′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%94%BF%E4%BA%94%E3%82%AB%E5%9B%BD%E6%9D%A1%E7%B4%84</a>
中のオランダとの条約まで拒否し続けたのか、同天皇はその具体的な理由を明らかにすべきなのに明らかにしていません。
(当初は、形式上ではオランダとではなく、オランダ東インド会社との交易でしたが、この会社は1799年12月31日にオランダ政府により解散させられていた
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E6%9D%B1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E4%BC%9A%E7%A4%BE’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E6%9D%B1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E4%BC%9A%E7%A4%BE</a>
ので、日本は名実ともにオランダという国と交易をしていました。)
天皇は、恐らくは、交易港を長崎以外に設けることに反対だったのでしょう。
(その理由も、もちろん明らかにしていませんが・・。
なお、私は、かつて、同天皇が、安政五カ国条約の不平等性に反対した、と誤って想像していたところです。)
それを逆手にとって、慶喜は、(やはり理屈もへったくれもありませんが、)横浜の鎖港だけに話を矮小化するライン・・もちろん、それすら実現の可能性がないことは承知の上だった・・で天皇に対し、自分の切腹を仄めかした脅迫的説得に成功し、安政五カ国条約を承認させるわけですが・・。
こんな天皇も天皇ですが、天皇の意向を事務的に論理の通ったものにして差し上げることを、廷臣達の誰も考えなかったということであり、これも、私の見るところ、摂家筆頭の近衛家が天皇を利用するだけで、補佐しようとしなかったからこそではないでしょうか。(太田)

(続く)