太田述正コラム#12528(2022.1.23)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その37)>(2022.4.17公開)

「禁門の変をうけ、朝廷は幕府に長州征討を命じた。
前尾張藩主徳川慶勝が総督に就任(正しくは第二代<(注73)>)、西国21藩に出兵が命じられた。

(注73)「紀州藩14代(最後の)藩主・・・徳川茂承<(もちつぐ。1844~1906年)が、>・・・1864年・・・8月6日・・・幕府第一次長州征討軍の総督となる<が、>8月8日・・・尾張藩主徳川慶勝と総督を交替。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E8%8C%82%E6%89%BF’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E8%8C%82%E6%89%BF</a>
「副将<は>越前藩主松平茂昭(もちあき)」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90-97901′>https://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90-97901</a>

⇒茂承に一旦決まり、すぐに慶勝に差し替えられたのは、紀州徳川家の御連枝
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%9D%A1%E8%97%A9′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%9D%A1%E8%97%A9</a>
で歴代藩主の墓所が日蓮宗の池上本門寺にある
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E5%95%93′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E5%95%93</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E5%AD%A6′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E5%AD%A6</a>
ところの伊予西条藩出身の茂承の墓所が、やはり池上本門寺(と紀州徳川家歴代の墓所である紀州の天台宗の長保寺)にある
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BF%9D%E5%AF%BA’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BF%9D%E5%AF%BA</a> 及び上掲
こと、及び、茂承の正室が伏見宮邦家親王の娘倫宮(みちのみや)則子女王であって彼女の母親が鷹司景子(注74)であって、則子自身の墓所が池上本門寺だけにあること、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%89%87%E5%AD%90′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%89%87%E5%AD%90</a>
つまり、茂承が単なる日蓮宗信徒であっただけではなく、天皇家出身の正室を日蓮宗信徒にさせるほど熱心な日蓮宗信徒であったと思われること、そしてその一方で、禁門の変で結果として朝廷側に幕府系全体に匹敵する兵力を提供した薩摩藩の司令官を務めた
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9A%86%E7%9B%9B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9A%86%E7%9B%9B</a>
ことから第一次長州征討軍でも早い時期から参謀に予定されていたと思われる西郷隆盛の背後霊とでも言うべき故島津斉彬が熱心な日蓮宗信徒であったこと、から、この第一次長州征討軍が薩摩藩の傀儡部隊であるとの(私に言わせれば誤解ではなく正解なのだけれど)誤解を生まないように、近衛父子/西郷隆盛が手を回して、(その正室が天皇家出身であることから、当初白羽の矢が立ったと思われる)茂承、を、慶勝、に差し替えたのではないでしょうか。(太田)

(注74)鷹司景子の妹の定子は、鷹司政煕の女子であるところ、近衛基前の養女として尾張藩11代藩主の徳川斉温・・徳川家斉の十九男・・の継室になっており、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%B8%A9′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%B8%A9</a>
その更に妹の任子は、徳川家定の正室になっている。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%94%BF%E7%85%95′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%94%BF%E7%85%95</a>

青息吐息の長州藩に追い打ちをかけるように、8月2日には、前年、独力で攘夷を実行するとして関門海峡を通過する外国船を砲撃したことへの報復として、英国・米国・フランス・オランダによる四国連合艦隊襲来の報がもたらされた。・・・
1865<年>正月15日、三条以下五卿は、関門海峡を渡り、筑前国・・・に上陸した。・・・
五卿は福岡藩で一括して預かり、薩摩・熊本・佐賀・久留米各藩からは金銭と若干の人員を負担することになっていた。・・・
三条以下五卿の太宰府滞在が、中央政局に及ぼしたインパクトのうち、最大のものが薩長盟約である。
薩長両藩の連合というアイデアの元祖は、真木和泉守である。
真木は、幕府打倒は区々の浪人だけではおぼつかず、薩摩や長州のような雄藩の軍事力こそが不可欠と考えていた。
彼が真剣であったことは、<1863>年八月一八日政変直後の長州で、反薩摩感情が渦巻くなか、西郷を通じて協力を得ようとしていたことからもうかがえる・・・。・・・
五卿の周囲で、福岡藩勤王派の・・・月形洗蔵<(注75)>・早川養敬<(注76)>ら・・・の薩長提携論に最初に共鳴したのは、中岡慎太郎であった。・・・

(注75)1828~1865年。「1860年・・・5月、藩主・黒田長溥[・・(ながひろ)。島津重豪の子にして蘭癖大名・・
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E9%95%B7%E6%BA%A5′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E9%95%B7%E6%BA%A5</a> ]
が参勤交代を行うに際し、尊王論の立場から述べた建白書を提出、さらに8月には藩の汚職を批判する建言を行った。
このことから11月に捕縛され、翌年の・・・1861年・・・に家禄没収の上、御笠郡古賀村(現・筑紫野市古賀、上古賀)に幽閉される(辛酉の獄)。・・・
・・・1864年・・・5月、罪を許されて職に復し、町方詮議掛のち吟味役を命じられ、薩長2藩の融和および薩長同盟の起草に勤めた。第一次長州征討において福岡藩は征討中止を目指し、藩を挙げて長州周旋に務めたが、月形は五卿を説得して長州藩外への移転を実現し、征討中止に貢献した。・・・1865年・・・には三条実美以下五卿が太宰府天満宮の延寿王院(太宰府市)に移る際、これを下関(山口県下関市)まで迎えに行き案内した。
しかし幕府が再度の長州征討を決定すると、反対勢力の佐幕派が復権して藩論が一変する。洗蔵は五卿転座の費用の藩の公金1500両使途不明で公金横領の罪を問われ、身柄を親類に預けられた後、・・・海津幸一ら13名と共に斬首される(乙丑の獄)。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E5%BD%A2%E6%B4%97%E8%94%B5′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E5%BD%A2%E6%B4%97%E8%94%B5</a>
(注76)1832~1899年。「苗字帯刀を許される庄屋に生まれ、医師の早川家に養子に出て医師となる。月形洗蔵の父・深蔵の塾で学んだことで月形と知り合い、尊王攘夷思想に感化される。
禁門の変の後、三条実美たちが長州へと落ちるときに随従していた中岡慎太郎と長州で知りあい、早川の仲介で<1865>年12月4日・・・に西郷隆盛、中岡の会談へと結びつく。さらに、同年12月11日(1月8日。12日(9日)という記録もある)に早川、月形の斡旋で西郷、高杉晋作の会談が実現する。ここから、長州にいた三条たち五卿は<1865>年1月14日・・・、筑前大宰府の延寿王院(現在の太宰府天満宮境内にある)に移動を開始した。その後、早川、月形たち筑前勤皇党は藩政を乱したとして月形は斬首、早川は幽閉となった(乙丑の変)。明治に入ってからは、奈良府判事や元老院大書記官などを務めた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E5%B7%9D%E9%A4%8A%E6%95%AC’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E5%B7%9D%E9%A4%8A%E6%95%AC</a>

中岡は密かに小倉へ渡り、西郷と対面し、その学識胆略に服し、熱心な薩長提携論者となったという・・・。
周知のとおり、薩長盟約によって瀕死の長州藩は蘇生するわけだが、第一次長州征討の際、総督府より長州処分を任された西郷は、当初は長州藩をわずかな領知でもって東国へ転封させる、厳しい対処を考えていた。
だがその後、長州藩を潰滅させず、精力温存をはかったほうが薩摩にとって有利というリアリズムを背景に、温和策へと方針を転換させた・・・。」(94~95、102~103、110~111)

⇒(慶喜を将軍に送り出したところの水戸藩は、慶喜が藩主でも前藩主でもなかったこともあり、ついに藩論を統一できなかったけれど、)藩主・・薩摩藩の場合は現藩主や島津久光ではなく故人である前藩主・・が倒幕を期していたところの、薩摩藩、と、長州藩、の提携は、島津斉彬の考え・・島津重豪によって養子送り込み等で九州のほぼ全域を薩摩藩の味方につけ、日本全国にも同藩の味方がいたが、戦略的要衝を扼する長州藩との提携なくして、日本の中央部への進出は不可能であるところ、そんなことは幕府側にも分かっている以上、提携に係るタイミングの見極めと極秘裏の周旋とが不可欠・・であり、当然それは西郷や大久保利通らの薩摩藩の島津斉彬コンセンサス信奉者達の考えでもあることを、徳川茂承はもちろん、徳川慶勝だって知っていて密かにそれに賛同しており、だからこそ、慶勝は、長州処分を西郷に一任したのである、と、私はかねてから見ている(コラム#省略)わけです。
そこに、真木だの福岡藩勤王派だの中岡慎太郎だの五卿だの(或いは坂本龍馬だの)の実質的な出番などありえなかった、と。(太田)

(続く)