太田述正コラム#12534(2022.1.26)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その40)>(2022.4.20公開)

「1867<年>12月9日の小御所会議で決まった徳川慶喜の辞官納地であるが、即座に応じる気配はなく、事態は膠着したままであった。」(130~)

(注83)「<1862>年の時点で、当時外国奉行であった幕臣の大久保一翁(忠寛)は、「攘夷は得策ではなく、朝廷が開国を認めず攘夷実行を迫るならば、徳川家は政権を返上して諸侯の列に下るべきである」という大政奉還論を松平春嶽に述べている。参預会議が徳川将軍の権威を上に戴く体制だったのに対し、一翁の論は徳川家を諸侯と同列に置く形の公議政体論であった。これに春嶽やその政治顧問の横井小楠、幕臣の勝海舟(義邦)、海舟門下の土佐脱藩浪士・坂本龍馬などは感服しているが、幕府要人一般からは不興を買うものであった。・・・
将軍慶喜は、・・・<1867年>10月14日に大政奉還を上奏し(翌15日に勅許)、260年以上にわたって幕府(徳川将軍家)が保持していた政権を朝廷に返上する旨を表明した。・・・
朝廷は諸侯会議を召集して合議により新体制を定めることとし、徳川慶勝(尾張藩)、松平春嶽(越前藩)、島津久光(薩摩藩)、山内容堂(土佐藩)、伊達宗城(宇和島藩)、浅野茂勲(芸州藩)、鍋島直正(肥前藩)、池田茂政(慶喜の実弟、備前藩)ら諸藩に上洛を命じた。新体制発足までは幕府に引き続き国内統治を委任することとし、幕府はなおその間存続した。
倒幕派の岩倉具視や薩摩藩は、大政奉還によっていったん討幕の名分を失わせられた上、朝廷が従来の機構や門流支配を温存し親徳川派の摂政・二条斉敬や賀陽宮朝彦親王(中川宮、維新後久邇宮)に主催されたままでは自分たちの意向も反映されず、来たるべき諸侯会議も慶喜を支持する勢力が大きければ、結局新体制は慶喜を中心とするものになってしまうという懸念があった。これを阻止するため、明治天皇や自派の皇族・公家を擁して二条摂政・朝彦親王らの朝廷首脳を排除し、機構・秩序の一新された(慶喜抜きの)新体制を樹立するクーデター計画を練った。薩摩・長州・芸州3藩は藩論をまとめ、政変のための出兵同盟を締結する。
諸大名は諸侯会議の召命を受けても形勢傍観の構えを取る者が多く、11月中に上洛した雄藩は薩摩・芸州・尾張・越前のみで、12月8日に至ってようやく土佐の山内容堂が入京した。・・・
具体的な政変の実行について、大久保らは当初、開港翌日の<1867>年12月8日・・・を予定していた。しかし土佐の後藤象二郎から2日延期を要請され、やむなく1日延期して翌・・・12月9日・・・に決行することとした。その前夜、岩倉具視は自邸に薩摩・土佐・安芸・尾張・越前各藩の重臣を集め、王政復古の断行を宣言し、協力を求めた。こうして、5藩の軍事力を背景とした政変が実行に移されることとなるが、政変参加者の間において、新政府からの徳川家の排除が固まっていた訳ではない。越前藩・尾張藩ら公議政体派は徳川家をあくまで諸侯の列に下すことを目標として政変に参加しており、実際に親藩である両藩の周旋により年末には慶喜の議定就任が取り沙汰されるに至っている。
また、大久保らは政変にあたって、大政奉還自体に反発していた会津藩らとの武力衝突は不可避と見ていたが、二条城の徳川勢力は報復行動に出ないと予測しており、実際に慶喜は政変3日前の<1867>年12月6日・・・に越前側から政変計画を知らされていたものの、これを阻止する行動には出なかった。兵力の行使は新政府を樹立させる政変に際し、付随して起こることが予想された不測の事態に対処するためのものであり、徳川家を滅ぼすためのものではなかった。
<1867>年12月8日・・・夕方から翌朝にかけて摂政二条斉敬が主催した朝議[(小御所会議)]では、長州藩主・毛利敬親、広封父子の官位復旧と入京の許可、岩倉ら勅勘の堂上公卿の蟄居赦免と還俗、九州にある三条実美ら五卿の赦免などが決められた。これが旧体制における最後の朝議となった。
<1868>年12月9日・・・、朝議が終わり公家衆が退出した後、待機していた5藩の兵が御所の九門を封鎖した。御所への立ち入りは藩兵が厳しく制限し、二条や朝彦親王ら親幕府的な朝廷首脳も参内を禁止された。そうした中、赦免されたばかりの岩倉らは、天皇出御のうえ御所の御学問所に参内して「王政復古の大号令」を発し、新政府の樹立を決定、新たに置かれる三職の人事を定めた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%94%BF%E5%BE%A9%E5%8F%A4_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%94%BF%E5%BE%A9%E5%8F%A4_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%BE%A1%E6%89%80%E4%BC%9A%E8%AD%B0′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%BE%A1%E6%89%80%E4%BC%9A%E8%AD%B0</a> ([]内)

⇒大久保一翁は、日蓮宗信徒であったらしい大久保家
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%BF%A0%E5%8B%9D’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%BF%A0%E5%8B%9D</a> ←大久保忠勝
<a href=’https://temple.nichiren.or.jp/0071037-daikyuji/’>https://temple.nichiren.or.jp/0071037-daikyuji/</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%BF%A0%E6%95%99′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%BF%A0%E6%95%99</a> ←大久保忠教
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E7%A6%85%E5%AF%BA’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E7%A6%85%E5%AF%BA</a>
に生まれ、日蓮宗信徒の「第11代将軍・徳川家斉の小姓を勤め、・・・老中の阿部正弘に早くから見出されて・・・1854年・・・に目付・海防掛に任じられた」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E4%B8%80%E7%BF%81′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E4%B8%80%E7%BF%81</a>
人物であり、阿部を私は秀吉流日蓮主義者であったと見ている(コラム#12466)ところ、彼は、大久保の秀吉流日蓮主義者性を見抜いて抜擢したのだと思いますが、大久保らの意見具申(上掲)のあるなしにかかわらず、当然のことながら秀吉流日蓮主義者であった慶喜とて、大政奉還は早い時点から考えていたはずであり、大久保とは違って・・いや、大久保の地位、立場では到底口にできなかっただけだと思いますが、・・これまた早い時期から、徳川本家/幕臣の大宗の体たらくからして、「徳川家を諸侯と同列に置く形の公議政体論」すらよろしくない、僭越極まる、という認識だったはずだ、と私は見ており、後は、この徳川本家を可能な限り円滑かつ無血に近い形で潰すタイミングだけだったのではないでしょうか。
なお、お気づきのことと思いますが、「注83」で王政復古の大号令に関与した薩・芸・尾・越前・土5藩それぞれの実質的指導者達は、芸(広島藩)を除き、いずれも、慶喜同様の秀吉流日蓮主義者達であり、王政復古が円滑に断行できたのは不思議でも何でもありません。
広島藩(注84)については、機会を見て追究してみたいと思っています。(太田)

(注84)「幕末、薩長同盟が成立すると浅野家の広島藩もこれに加わって薩長芸三藩同盟を締結し、倒幕に踏み切った。その一方で徳川慶喜に大政奉還の建白書を提出するなどしたため、日和見藩と不信を買い、浅野家はその中枢からは除外される形となった。しかし戊辰戦争では官軍として奮戦し<た。>」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E6%B0%8F’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E6%B0%8F</a>

(続く)