太田述正コラム#12538(2022.1.28)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その42)>(2022.4.22公開)

「1869年に入っても新政府は安定しなかった。
京都・東京の両都体制のもと、京都では公家など守旧派が跋扈し、逆に東京では参与後藤象二郎らによる公議政体樹立へ向けた動きが突出するという分裂ぶりであった。
新政府軍兵士の風紀はみだれ、政府の威権(いけん)低下は甚だしかった。
各地の草莽のあいだには新政府の開化方針に対する反感が渦巻き、正月5日には参与横井小楠が戸津川郷士らにより暗殺されている<(注86)>。・・・

(注86)「殺害の理由は「横井が開国を進めて日本をキリスト教化しようとしている」といった事実無根なものであったといわれている(小楠は実際には、キリスト教が国内に入れば仏教との間で争いが起こり、乱が生じることを懸念していた)。しかも弾正台の古賀十郎ら新政府の開国政策に不満を持つ保守派が裁判において横井が書いたとする『天道覚明書』という偽書を作成して横井が秘かに皇室転覆を企てたとする容疑で告発するなど、大混乱に陥った。紆余曲折の末、実行犯であった4名(上田・津下・前岡・鹿島)が明治3年(1870年)10月10日に処刑されることとなった。なお、実行犯の残り2人のうち柳田は襲撃時の負傷により明治2年(1869年)1月12日に死去し、中井は逃走し消息不明となっている。その他、実行犯の協力者として上平主税ら3人が流刑、4人が禁固刑に処されている。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E4%BA%95%E5%B0%8F%E6%A5%A0′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E4%BA%95%E5%B0%8F%E6%A5%A0</a>

瓦解の危機を克服すべく、岩倉具視や大久保利通が提唱したのが、官吏公選<(注87)>による人事の刷新であった。

(注87)「1869年(明治2)5月13日天皇の詔(みことのり)によって行われた官吏の選挙。三等官以上の上層官吏の公選によって、輔相(ほしょう)1名、議定4名、参与6名のほか、神祇、民部、会計、軍務、外国、刑法の六官知事・副知事と内廷職知事を決めた。ただし輔相、議定、各官および内廷職知事の被選人は公卿、諸侯に限られた。この公選は、政体書の「諸官四年ヲ以(もっ)テ交代ス公選入札ノ法ヲ用フ」<*>という標榜に基づくものであった・・<但し、>再選を認め<ていた。>・・が、当時政府には冗員が多く、その任用も情実に流れたため、その弊を改めるために大久保利通、岩倉具視の発議によって実施されたものである。」
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「政体書(せいたいしょ)は、明治初期の政治大綱、統治機構について定めた太政官の布告である。副島種臣と福岡孝弟が<米>国憲法および『西洋事情』等を参考に起草し、<1868年>閏4月21日・・・に発布された。同年4月27日頒布。・・・
内容<は、以下の通り。>
・五箇条の御誓文を国家の基本方針とする。(第1条)
・太政官への権力集中。立法・行政・司法の三権分立。(第2条)
・立法官と行政官の兼職禁止。(第3条)
・各官の任期を4年とし、2年ごとに半数を改選する。(第9条)<*>
・第一等官から第九等官の官等を定める。(第13条)」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E4%BD%93%E6%9B%B8′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E4%BD%93%E6%9B%B8</a>

その狙いは守旧派や無能分子の排除、整理にあり、5月13・14日、三等官以上の上級官吏により公選が行われた。

⇒これは、公選の結果もたらされたものであり、公選の目的(狙い)は、あくまでも、せっかく作られたところの、政体書、の規定の一つの実行であったはずです。(太田)

三条は49票を獲得して、輔相に任じられ、議定には岩倉具視・徳大寺実則<(注88)>・鍋島直正が、参与には大久保利通・木戸孝允・副島種臣・東久世通禧<(注89)>・後藤象二郎・板垣退助がそれぞれ当選した。

(注88)さねつね(1840~1919年)。「鷹司政煕(高祖父)鷹司政通(曽祖父)鷹司輔煕(祖父)徳大寺公純(父)西園寺公望(弟)・・・尊皇攘夷派の公卿として活躍し、1862年・・・国事御用掛、翌年議奏となったが、1863年・・・に起こった八月十八日の政変[で、免官、]謹慎となった。王政復古の後、1868年・・・1月に明治政府の参与・議定として内国事務総督を兼ね、2月には内国事務局督、1869年(明治2年)内廷職知事、ついで大納言に至った。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%AE%9F%E5%89%87′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%AE%9F%E5%89%87</a>
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E5%BE%B3%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%AE%9F%E5%89%87-19124′>https://kotobank.jp/word/%E5%BE%B3%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%AE%9F%E5%89%87-19124</a> ([]内)
(注89)ひがしくぜみちとみ(1834~1912年)。「1842年・・・、東宮統仁親王(後の孝明天皇)付きの御児として召し出され、所謂「御学友」的な存在として位置づけられていた。・・・七卿落ち<のうちの一人。>・・・
1868年・・・、王政復古によって復権を果たす。1月17日に外国事務総督の1人となり、明治政府最初の外交問題・神戸事件の対応責任者となり伊藤博文と共に外国と協議。3月19日には・・・現在の神奈川県知事に<なった。>
明治2年(1869年)8月25日、第2代開拓長官に任命された。前任の鍋島直正が実務にとりかかる前に辞職したため、実質的に開拓使の事業を始動させたのは通禧である。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%B9%85%E4%B8%96%E9%80%9A%E7%A6%A7′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%B9%85%E4%B8%96%E9%80%9A%E7%A6%A7</a>

⇒「藤原氏北家閑院流<は、>・・・白河・鳥羽・後白河3上皇がすべてこの流からでているので,院政期に勢力があり,<藤原>公実[(きんざね。1053~1107年)]の3子,すなわち実行が三条家を,通季が西園寺家を,実能が徳大寺家を起こし,いずれも摂関家につぐ清華という家格となった」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E5%BE%B3%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%AE%9F%E5%89%87-19124′>https://kotobank.jp/word/%E5%BE%B3%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%AE%9F%E5%89%87-19124</a> 前掲
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%AC%E5%AE%9F’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%AC%E5%AE%9F</a> ([]内)
というわけで、第一次縄文モードから第一次弥生モードへのモード転換にあたって朝廷における主役を務めた御堂流の露払いを結果として務めたのが閑院流であったことと、第二次縄文モードから第二次弥生モードへのモード転換にあたって朝廷における主役を務めた(御堂流の直系の)近衛家の露払い役を結果として務めたのが(閑院流の後裔の)三条家と徳大寺家であったこと、という因縁が面白いですね。
では、前者での以仁王に対応する後者での人物は誰か?
それは、次の東京オフ会「講演」原稿でのお楽しみ。(太田)

守旧派の排除にもおおむね成功するなど、結果は上々であったが、大村益次郎が共和政治につながると批判したように、官吏公選は天皇による万機親裁をかかげる維新政権の精神とは本質的に相いれず、一時の便法として、ふたたび行われることはなかった。」(143)

(続く)