太田述正コラム#12540(2022.1.29)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その43)>(2022.4.23公開)

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[万機親裁・統帥権の独立・陸軍幼年学校]

「明治維新の際に、新たに成立した政府・国家の最も重要な政治理念として「天皇の万機親裁」なるものが定立され、それ以降約80年にわたり、日本の統治制度はこの政治理念により大きく拘束されつづけた。

⇒「天皇の万機親裁」制導入の目的は、天皇が主導する日本の国家総体が推進する日蓮主義たる秀吉流日蓮主義(島津斉彬コンセンサス)の推進体制の確立だった、というのが私の見方だ。(太田)

しかし、この政治理念の定立とその現実化との間には少なからぬタイムラグがあった。なぜなら、天皇が日常的に万機を親裁する体制ができあがるのは、明治維新から10年たった西南戦争後のことだったからである。・・・
西南戦争後に登場した「万機を親裁する」天皇は、その一年数ヶ月後には、太政大臣と内閣の輔弼によらず、もっぱら参謀本部長と陸軍卿の輔翼によって軍務に決裁を与える存在にまで進化した。

⇒「進化」したのではなく、予定通りそうなった、ということだ。(太田)

<この時>期に天皇と太政大臣・内閣の関係は二度大きく変化した。まず、1877年9月からはじまった「万機親裁」により、太政大臣と天皇の一体・不可分性が清算され、太政大臣の輔弼を受けつつも、国家意思確定の最終項として自らを自立させた。さらに1878年末から帷幄上奏事項を親裁しはじめた・・その初例<が>、1879年1月6日付の野津道貫陸軍少将の近衛参謀長御用取扱被免の人事である・・ことで、太政大臣の輔弼によらずに、内閣とは独立して統帥権を行使する大元帥となった。
この両者はじつは連動している。内閣の決議と天皇の裁可とが分離し、天皇の決裁が国家意思確定の最後の項として独立していたからこそ、軍部からの奏請を天皇が内閣から独立して裁可することが可能だったのである。その前提に「万機親裁」の成立があってはじめて統帥権の独立が成り立ちうるのであり、それがなければ、そもそも統帥権の独立そのものがありえないのである。」(永井和「万機親裁体制の成立 ―明治天皇はいつから近代の天皇となったのか―」
<a href=’http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/sympo02-01/02.html’>http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/sympo02-01/02.html</a>
永井和(かず。1951年~)は、京大文(史学)卒、同大院博士課程退学、同大助手、と山田助教授、立命館大助教授、京大博士(文学)、立命館大教授、京大助教授、教授、京都橘第教授。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E5%92%8C’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E5%92%8C</a>

⇒1877年9月時点の陸軍卿は山縣有朋(1874年6月30日~)であり、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E7%9C%81#%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%8D%BF%E3%83%BB%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%BC%94′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E7%9C%81#%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%8D%BF%E3%83%BB%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%BC%94</a>
1879年1月時点での陸軍卿は西郷従道(1878年12月24日~)だ。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E5%BE%93%E9%81%93′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E5%BE%93%E9%81%93</a>
だから、まず、(どちらも秀吉流日蓮主義者(島津斉彬コンセンサス信奉者)であったと私が見ているところの、)山縣(コラム#省略)が決め、後任の西郷に引き継いで陸軍における統帥権の独立制を導入させ、それが海軍にも適用されるようになったのだろう。
訳が分かっていないと想像されるところの、太政大臣の三条実美、は適当にたぶらかし、秀吉流日蓮主義者であると私が見ているところの、かつ、民選議院の開設を含む立憲政体の樹立に反対であったところの、ナンバーツーたる右大臣の岩倉具視
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E5%85%B7%E8%A6%96′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E5%85%B7%E8%A6%96</a> ←岩倉具視
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B3%E5%A4%A7%E8%87%A3′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B3%E5%A4%A7%E8%87%A3</a> ←右大臣
は、その理解を・・さしずめ、岩倉に対しては将来民選議院が開設されても、陸海軍の人事を含む運用に同議院が介入できないようにするため、といった理屈を並べ立てて・・得た上で、両名の同意を取り付けたのだろう。
ちなみに、「1871年(明治4)7月の兵部省職員令は、兵部卿の補任資格を「本官少将以上」とし武官専任制を規定していたが、その後は、官制上、補任資格を武官に限定しない時期も存在していた。しかし、政党勢力の伸張に伴い、軍政へのその浸透を防止するため、1900年(明治33)5月、山県有朋内閣は、陸海軍省官制を改正して陸海軍大臣を現役の大将もしくは中将に限ることとし、ここに軍部大臣現役武官制が確立した。」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E8%BB%8D%E9%83%A8%E5%A4%A7%E8%87%A3%E7%8F%BE%E5%BD%B9%E6%AD%A6%E5%AE%98%E5%88%B6-58468′>https://kotobank.jp/word/%E8%BB%8D%E9%83%A8%E5%A4%A7%E8%87%A3%E7%8F%BE%E5%BD%B9%E6%AD%A6%E5%AE%98%E5%88%B6-58468</a>
ところ、これにも山縣がからんでいたのは当然だと言うべきか。
私見では、天皇大権に基づくところの統帥権の独立、及び、軍部大臣現役武官制、の目的は、大臣以下の幹部の人事がメリットのみによって行われ、かつ対外政策に関与でき、何よりも暴力装置であるところの、陸海軍、とりわけ陸軍に、日本の秀吉流日蓮主義完遂の中枢的機能を、世論の掣肘を受けない形で、担わせ続けるところにあったのだ。
ちなみに、縄文的弥生人の消滅回避のために設立されたと私が見ているところの、陸軍幼年学校の歴史は、「1870年(明治3年)、横浜語学研究所を大阪兵学寮に編入、幼年学舎としたことに始まる。1871年(明治4年)、大阪兵学寮は陸軍兵学寮・海軍兵学寮に分離され、同年東京府に移転した。1872年(明治5年)、陸軍兵学令の改正に伴い陸軍兵学寮幼年学舎から独立する形として幼年学校が設立された。さらに1874年(明治7年)、陸軍士官学校(陸士)が陸軍兵学寮より離れて独立。翌1875年(明治8年)、幼年学校も陸軍兵学寮より分離独立、陸軍幼年学校と改称されたが、1877年(明治10年)には陸軍士官学校に組み入れられ一時消滅した。1886年(明治19年)4月に教育令に代わって中学校令等が公布されると、翌1887年(明治20年)、陸軍士官学校官制および陸軍幼年学校官制が制定され、陸軍幼年学校は再度設立された。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%B9%BC%E5%B9%B4%E5%AD%A6%E6%A0%A1′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%B9%BC%E5%B9%B4%E5%AD%A6%E6%A0%A1</a>
というものであり、1870年設立と見ても1887年設立と見てもいいわけだが、設立を1870年と見れば、兵部大輔は欠で、兵部卿の有栖川宮熾仁親王はお飾りだったので、兵部省の事実上のトップは兵部少輔だった
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B5%E9%83%A8%E7%9C%81′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B5%E9%83%A8%E7%9C%81</a>
ところ、その少輔は山縣有朋だったし、設立を1887年と見れば、時の(初代)陸軍大臣は大山巌(西郷隆盛と西郷従道の従兄弟)だった
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E7%9C%81′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E7%9C%81</a>
ので、いずれにせよ、やはり、私が秀吉流日蓮主義者と見ている人物による設立だった、ということになる。
なお、初代の海軍大臣は西郷従道だった
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3</a>
というのに、彼は海軍幼年学校を設立しなかったわけだが、恐らく、陸軍とは違ってそれまでに海軍では海軍兵学校で幼年学校に相当する部門が消滅していたからではなかろうか。
いずれにせよ、海軍で幼年学校が欠如したままになった理由については、引き続き追究してみたい。(太田)
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(続く)