太田述正コラム#12542(2022.1.30)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その44)>(2022.4.24公開)

「明治初年の官制の変遷はめまぐるしい。
1869年7月8日、政体書に代わって「職員令」が制定された。・・・
三条は輔相よりスライドして右大臣(左大臣は欠員)、おなじく岩倉は議定より大納言に就任した。・・・
1871年7月、廃藩置県の実施をうけ、またも官制改革が行われた。・・・
太政大臣<に任じられた>・・・三条は<当時>35歳。
伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任したのが45歳、昭和期にはいり、青年貴族といわれた近衛文麿が47歳であるから、制度こそちがえ、三条の若さは際立っている。
三条家からの太政大臣は、・・・1536<年>に三条実香<(注90)>(さねか)が辞任して以来、じつに335年ぶりであった。・・・

(注90)1469~1559年。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E9%A6%99′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E9%A6%99</a>
その嫡男の公頼(きんより)が、下向先の周防国で、「大内義隆・・・家臣の陶隆房の反乱(大寧寺の変)に巻き込まれ殺害され<ている。>」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%85%AC%E9%A0%BC’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%85%AC%E9%A0%BC</a>

明治政治史研究では、大久保利通のような実力者をもって政府の最高指導者とみなすのが一般的である。
だが、・・・官制は厳然と存在し、いかに実力者であっても、これを無視して勝手に政府を切り回すことはできない。
「大久保政権」「大久保独裁」といった語は、政治の実態をあらわす言葉としては必ずしも否定しないが、十分に吟味したうえでの使用がもとめられよう。

⇒そんなことを言い出されると、その更に上にいる明治天皇をどうしてくれる、とクレームをつけたくなりますね。(太田)

<朝鮮への>西郷遣使・・・が閣議で決まると、三条は箱根で静養中の天皇のもとに赴き、これを言上した。
天皇の回答は、「西郷を使節として朝鮮国に差遣する事は、宜しく岩倉の帰朝を待ちて相熟議し更に奏聞すべし」というものであった。
この天皇の発言を『明治天皇紀』は、天皇の「聖断」としているが、いまだ君徳涵養のため修学中の満20歳の天皇が、この段階で主体的に重大な政治決定を下したというのは展開としてあり得ない。
天皇親政とのかねあいから「聖断」というが、天皇の発言は、慎重論をとる三条の主張をなぞっただけにすぎない。」(144~146、156~157)

⇒明治天皇は、1867年1月に14歳の時に践祚し、中沼了三(注91)を初の侍講にし、その後丁度1年で摂関制が廃止されたことから爾後摂政を置くことなく、1868年15歳の時に元服し、即位の礼を挙行し、16歳になってすぐに一条美子を皇后に迎えており、昨今の20歳とは全く異なり、既に立派な「大人」であったはずです。

(注91)1816~1896年。「隠岐国(島根県隠岐の島)で医師の・・・三男として生まれる。・・・1835年・・・京都に上り、山崎闇斎の流れを汲む崎門学派浅見絅斎の学統である鈴木遺音(恕平)の門下として儒学を学んだ。・・・1843年・・・、鈴木遺音の没後に葵園浅見安正の学統を承け、京都で開塾。学習院講師、孝明天皇の侍講となる。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B2%BC%E4%BA%86%E4%B8%89′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B2%BC%E4%BA%86%E4%B8%89</a>

そんな明治天皇に最も大きな影響を与えたのは、(「鎖国」体制の維持を望んでいた)父である故孝明天皇と、実母の中山慶子(及び、孝明天皇に忠実であった(慶子の父の)中山忠能、に加えて、慶子の兄で天誅組の主将になり、その後長州藩に殺害されたと言ってもよい、中山忠光)、並びに、中沼でしょうが、中沼は、「維新後に政府の実権を天皇でなく自ら把握しようとした三条実美、徳大寺実則らと対立し、明治3年(1870年)12月に官を辞した。のちに自身で名誉職を設け<て就任し>た三条とは不仲であったとされる。」(上掲)ところ、明治天皇は、この中沼の影響等から、三条らやその三条らの背後にいる長州出身者達に対する警戒心、と、自身が親裁しなければならないとの使命感、を抱いていたと想像される以上、三条が全会一致でなされた閣議の決定
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E9%9F%93%E8%AB%96′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E9%9F%93%E8%AB%96</a>
に反する上奏を行うとは考えにくいこともあり、このような内藤の見解には同意できません。(太田)

(続く)