太田述正コラム#12544(2022.1.31)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その45)>(2022.4.25公開)

「明治新政府の近代化路線は、現在では肯定的にとらえられることが多い。
だが、同時代にあっては必ずしもそうではなく、むしろ批判的な声が少なくなかった。・・・
新政府への怨嗟は、維新後、下級武士などから一躍地位を上昇させた政府大官の放蕩や金銭的醜聞と結びつくことが多く、そうしたなかで、政府に不満をいだく士族や農民、さらには華族など広汎な層から期待を集めたのが島津久光であった。・・・
明治六年の政変<(注92)>後も政治の動揺はおさまらず、1874年に入ると、台湾出兵が行われ、さらに岩倉具視襲撃事件<(注93)>、民撰議院設立建白書<(注94)>の提出、佐賀の乱<(注95)>と大きな事件があいついだ。

(注92)「征韓論を主張した西郷隆盛・板垣退助ら5人の参議が、内治優先を主張した大久保利利通らとの政争に敗れ下野した事件。その後、西郷らに同調する政治家や官僚・軍人の辞職が相次いだ。」
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(注93)赤坂喰違(くいちがい)の変。「1874年(明治7)1月14日、右大臣岩倉具視が征韓派の不平士族に襲撃された事件。・・・征韓論争<の>・・・結果、敗退した征韓論者は対立した内治派を恨んだ。当日夜、内治派の首脳の一人岩倉具視は、赤坂仮皇居から退出し、赤坂喰違(当時の伊賀町新土橋近くにあった喰違御門付近。現在の千代田区紀尾井町の一部)に至ったところ、高知県の士族武市(たけち)熊吉ら9人の征韓論同調者に襲撃され負傷したが、逃れた。」
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(注94)「1874年(明治7)1月17日、前参議板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、前東京府知事由利公正(ゆりきみまさ)、前大蔵大丞(だいじょう)岡本健三郎および起草者である古沢滋(ふるさわしげる)(迂郎(うるお))、小室信夫(こむろしのぶ)の8名が署名し、政府に対して最初に国会開設を要望した建白書で、自由民権運動の発端となった歴史的文書。征韓論に敗れて下野した板垣ら前参議は、イギリスから帰国した古沢・小室らの意見を聞き、74年1月12日に愛国公党を結成して反政府運動に乗り出した。「天の斯民(しみん)を生ずるや之(これ)に附与するに一定動かすべからざるの通義権理を以(もっ)てす」という天賦人権論にたって、専制政府を批判して、君民一体の政体をつくらない限り帝国の隆盛はないといい、士族および豪農商に参政権を与えよと主張した。この建白書をめぐって、政府や明六(めいろく)社は時期尚早と反対したが、自由民権思想はしだいに国民各層の間に浸透した。」
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(注95)「1874年2月に佐賀県下の士族が中心となって起した反政府反乱。当時の佐賀県には,強硬に征韓論を唱える征韓党や,中央政府の推し進める強権的資本主義化に反対し,旧武士層の利害を代表して封建復活を唱える憂国党などがあり,政治的には反明治新政府の牙城であった。 74年1月,大久保利通,岩倉具視らとの征韓論をめぐる政治的抗争に敗れた江藤新平が,下野して征韓党首領となるや,佐賀県の不平士族は反乱へと積極的に動きはじめ,征韓党は島義勇を首領とする憂国党と合体,旧弘道館に本部を設置し,「征韓先鋒請願事務所」を名のった。征韓党と憂国党が同年2月1日,政商小野組を襲撃して兵をあげる準備をするなど不穏な動きをみせたことを契機に,政府は反乱鎮圧に乗出し,参議大久保利通を全権とする鎮圧軍を組織してこれを佐賀へと向わせた。反乱軍は,およそ 3000名を数え,一時,佐賀県庁 (旧佐賀城) を占拠するなど抗戦を続けたが,最新兵器で武装した政府軍の前に歯が立たず,2月いっぱいで鎮圧された。・・・
<反乱軍は>一般民衆との結合はまったく考えなかった。」
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⇒旧肥前藩での佐賀の乱の後、1876年には旧長州藩で萩の乱
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が松下村塾最年長の前原一誠主導で吉田松陰の親族を巻き込んで起こり、また、旧肥後藩で新風連の乱
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が起こり、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%A9%E3%81%AE%E4%B9%B1′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%A9%E3%81%AE%E4%B9%B1</a>
更に、旧福岡藩の支藩の旧秋月藩で秋月の乱
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E6%9C%88%E3%81%AE%E4%B9%B1′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E6%9C%88%E3%81%AE%E4%B9%B1</a>
が起こり、翌1877年には西南戦争
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%8D%97%E6%88%A6%E4%BA%89′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%8D%97%E6%88%A6%E4%BA%89</a>
が、旧薩摩藩で島津斉彬の股肱之臣にして維新の元勲の筆頭である西郷隆盛「主導」で起こるところ、このうちの、佐賀の乱、萩の乱、西南戦争から透けて見えて来るのは、いわゆる薩長土肥中の薩長肥の倒幕・維新の推進者達大宗の戦略観の薄っぺらさです。
どうやら、薩長肥においてすら、倒幕・維新の推進者達の大宗が、日本の安全保障戦略であるところの、島津斉彬コンセンサスについてであれ横井小楠コンセンサスについてであれ、皮相的な理解・受容にしか至っていなかったにもかかわらず、幕府側が勝手に転んでくれた結果、倒幕・維新がなってしまった、ということであったようですね。
これらの乱の主導者達は、日本の安全保障のためにこそ、せいぜい小規模な内戦しか伴わない形で維新を成功させる必要があった、ということが分かっていなかったとしか思えません。(太田)

こうしたなか三条は、下野した西郷に復帰をもとめるなど政府の立て直しにつとめたが、同年4月27日、周囲の声をいれ、久光を左大臣として起用する。
だが、この決定は政府に安定をもたらすどころか、内部に巨大な爆弾を抱え込むものとなる。・・・」(171、173)

(続く)