太田述正コラム#12554(2022.2.5)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その50)>(2022.4.30公開)

「木戸・大久保なき後は、伊藤が中心となるが、当初は伊藤をしのぐ大物参議として大隈重信があり、薩派もまとまった勢力をなしていた。
だが大隈が明治14年の政変で失脚し、薩派も伊藤が欧州での憲法調査を終え帰国した頃からは、太刀打ちできなくなった。・・・

⇒「太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいるなか、伊藤の盟友であった井上馨は「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくては駄目だ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成。これには三条を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。つまり英語力が決め手となって伊藤は初代内閣総理大臣となったのである。・・・維新以来、徐々に政府の実務から外されてきた公卿出身者の退勢はこれで決定的となり、以降、長きにわたって総理大臣はおろか、閣僚すらなかなか出せない状態となった。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87</a>
ということからして、幕末維新の激動時代に「実力」で権力者にのし上がった武士出身の人々の間で、「実力」もさることながら、主として「格式」のおかげで奉られてきたところの、(明治天皇以外の)貴族出身の人々を失権させ、その際、激変緩和措置として、それまで奉られてきたところの貴族出身の人々が、概ね非秀吉流日蓮主義者ばかりであったこともあり、対世間的目晦ましとして好都合である、と、同じく非秀吉流日蓮主義者たる伊藤博文を、実力もないわけではないけれど、若輩なるがゆえにこそ、奉ることにすることについて、この時までに伊藤の背後で根回しが終わっていた、という印象を私は持ちます。
いずれにせよ、薩派・・私に関しては、山縣有朋等を含む広義の薩派(秀吉流日蓮主義者達=島津斉彬コンセンサス信奉者達)・・が、「まとまった勢力をな」さない時代や「薩派<が>・・・伊藤<に>・・・太刀打ちできなくなった」時代、など、一度もなかった、と、私は見ています。(太田)

1885年12月22日<の>・・・内閣制の導入では、君主・議会の双方から独立した行政権の確立をめざし、宮中と政府の分離がはかられた。

⇒秀吉流日蓮主義遂行のための(ヒト、カネ、モノの)リソースを政府が天皇が無答責の形で集め、そのリソースを使って答責の天皇が秀吉流日蓮主義を政府が掣肘することなく遂行する体制が構築された、と、理解すべきである、というのが私の見方です。
問題は、肝心かなめの明治天皇に秀吉流日蓮主義遂行の意思がなかったことですが、秀吉流日蓮主義完遂の決定的時期は、当分の間やってこないと目されたことから、この悩ましい問題の存在は隠蔽され、その解決は先延ばしされ続けた、というのが私の見方です。(太田)

このとき、太政官制における太政大臣の、万機親裁を支える広範な機能がすべて内閣総理大臣に引き継がれたわけではない。
具体的には宮中方面に空白が生じる。
伊藤は、内閣総理大臣のまま宮内大臣<(注101)>を兼ねたが、これは便法にすぎず、そもそも宮内大臣の職掌は皇室の事務にすぎない。

(注101)「85年の太政官制の廃止,内閣制の創設は,制度的に宮中・府中の別を明確にし,宮内大臣は内閣の外にあるものとされた。しかし,同時に設置された宮中官としての内大臣は,天皇を常時輔弼(ほひつ)する立場から,ときに国政に関与することもあり,1912年の第3次桂太郎内閣成立のように,それまで内大臣兼侍従長であった桂が組閣するという例もあった。」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%A4%A7%E8%87%A3-484492′>https://kotobank.jp/word/%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%A4%A7%E8%87%A3-484492</a>

そこでこの方面の空白を埋める存在として創設されたのが内大臣<(注102)>であった。」(207、217)

(注102)「内大臣は御璽,国璽を保管し,詔勅,その他宮中の諸文書に関する事務を管掌し,天皇の側近に常に侍して輔弼の任にあたった。元来,内大臣は宮内大臣や他の国務大臣のように皇室事務や一般国務について輔弼の責に任じるものではないが,宮内大臣が欠けていたり,内閣が総辞職して新内閣の発足するまでの期間のように輔弼の責にあるものが欠けている場合は天皇に奉仕し,意見を述べ補佐する任にあった。したがって,政変に際しては後継内閣の首班について天皇の下問に奉答するのが内大臣の職務のはずであったが,実際には内大臣の責任において奉答せず,元老に下問されるように奉答するのが常であった。しかし元老西園寺公望の晩年には後継内閣の首班奏薦について内大臣の意見が重要視され,太平洋戦争に突入してからは,・・・元老に代わって・・・政治的にきわめて重要な役割を果した。」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E5%86%85%E5%A4%A7%E8%87%A3-107364′>https://kotobank.jp/word/%E5%86%85%E5%A4%A7%E8%87%A3-107364</a>

⇒まさに、(大久保利通の実子でいわば秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサスの申し子たる)牧野伸顕は、この内大臣時代(1925~1935年)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E4%BC%B8%E9%A1%95′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E4%BC%B8%E9%A1%95</a>
に、ご承知のように、常時輔弼すべき(非秀吉流日蓮主義者たる)昭和天皇をバイパスして、もっぱら(秀吉流日蓮主義者たる)貞明皇后を輔弼し、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサスの完遂に向け、その最終的なお膳立てを行う(コラム#省略)わけです。(太田)

(完)